「宇宙は不連続」と考えた人たち:リーマン、湯川、岡潔、グロタンディーク、保江。
空間の計量というものは、先見的な形式を持つわけではありません。が、しかし、相互作用の性質に帰すべきものであります。たとえば、距離という古典的概念、すなわちユークリッドの計量というものは、剛体が存在するという仮定の下でのみその正当性が保証されるものなのです。
--リーマン(1892年)
みなさん、こんにちは。
今回は物理学者のメモである。普通の人には理解できそうもないからスルーを。時間の無駄である。
何でもすぐに忘れてしまう、忘れっぽい私のことだ。「後々書く」とか、「後でまた」とか、言っていてもいつそれに舞い戻るかまったく見当つかない。だから、今回は忘れない内に、例の湯川秀樹博士の「素領域の理論」
湯川秀樹の「素領域の理論」を完成した男、保江邦夫博士:2つの「大どんでん返し」!?
に関するものをメモしておこう。
まず、湯川秀樹の「素領域の理論」
Atomistics and the Divisibility of Space and Time
をかなり一般的な形で、一応完成させたのが、保江邦夫博士だった。その論文はこれだった。
(1)Derivation of Relativistic Wave Equations in the Theory of Elementary Domains
(2)A new approach to the theory of elementary domains
この2つの内の(2)のものに、ゲオルグ・バーンハート・リーマンの、かの有名なリーマンの言葉が引用されている。それが、現代語に直すと、最初のものである。
この言葉は、リーマンがこれから、いま我々が知る「リーマン幾何学」をこれから本で紹介していくという、その最初に出てくる言葉らしい。このリーマンの教科書もいまインターネットで無料ダウンロードできる。いい時代になったものである。これである。
Bernhard Riemann's Gesammelte mathematische Werke und Wissenschaftlicher Nachlass (1876)
もっとも19世紀のドイツ語だから、相当にドイツ語が読めないと無理かもしれない。
要するに、リーマンは、「曲がった空間がどうたらこうたら~~」と言う前に、「この世界に空間がどういうものだと理解できたものはいない」ということを言いたかったのである。ユークリッドの「空間」というものは、剛体=堅い物体の存在なくしてありえね~~ヨと言ったわけである。
当たり前である。
数直線というものは、「物差し(=メジャー)」になる竹や金属版のようなものがあって、初めてその上に「目盛り」を、数学の数直線の近似物として印字して、それによって初めて計量(=距離を測ること)できるからである。
リーマンはそれを実によく理解していたのである。
そこから、もし物差しが剛体ではなかったらどうなりますか?
というような問いかけによって、ぐにゃ~~と曲がるようなものの上で「目盛り」を乗せたらどういう幾何学になるかを、あくまで「一つの例として」幾何学を構築したのであった。これが、いま「リーマン幾何学」と我々が呼ぶものである。
そして、アインシュタイン博士が、これを使って、「一般相対性理論」を作るために利用した。
いくら素粒子の最先端といおうが、素粒子理論家がすごいといおうが、一般相対性理論の素のリーマン幾何学は、ユークリッドの剛体ではないが、今度はゴムのような物体を念頭においている。ゴムは、剛体のように固くはないが、伸びたり縮んだりはできるものの、ゴムが切れたり、消滅したりということはありえない。
そういうわけで、いくらリーマンの幾何学がユークリッドのものよりフレキシブルになったとはいえ、所詮は「曲がる物差し」でしかない。
ところで、我々物性理論物理学者は、剛体は原子の共有結合でできていること、ゴムは高分子ファイバーのファンデルワールス力で結合していることを知っている。つまり、金属の物差しやゴムの曲がる物差しの中が「つぶつぶ」のものや「ファイバー」でできていることを知っている。もちろんリーマンは知らなかった。
もしいまリーマンがいたら何を考えただろうか?
おそらく、曲がるゴムの物差しではなく、「水や流体のような物差し」、あるいは、「気体のような物差し」、さらには「かげろうのような物差し」、あるいは「煙のような物差し」をさえ考えたのではなかろうか?
つまり、計量となる「物差し」自体がつぶつぶでできている。そんなものを考えたに違いない。
これが湯川秀樹博士や保江邦夫博士の想像した「素領域」というものである。エレメンタリードメインである。
よくアセンション系やスピリチュアル系や宇宙人系の人たちやチャネラーというような人たちが「この世界は10次元でできています」などと得意気に恥知らずにいうが、それはあくまでユークリッドの2500年前の発想にすぎない。
だから、こういう人を見ると、「ああ、人間の発想だな、こりゃ~~」と俺はすぐに見破れるのである。同じ人間でも、我々理論物理学者がもっと先に行っているからである。まだ
「宇宙は情でできている」(岡潔)とか、
「宇宙は離散的である」(グロタンディーク)とか、
「宇宙は双子宇宙です」(プチ)とか、
言ってくれれば、「おっと、それはおもしれ~~ぞ」という気にさせてくれるのである。まだ
「宇宙は愛で満ちています」(バシャール)
というスピリチュアルの方が真実味を感じるのである。
さて、この現実の宇宙がどういうものか?ということについて、宇宙についてはまったく無知だったが(もっとも誰も知らないからどうでもいいが)、数学の立場からとことん突き詰めた猛者がいた。それが、アレキサンダー・グロタンディークであった。
数学者の孤独な冒険―数学と自己の発見への旅 (収穫と蒔いた種と)
この本の83ページにこう書いている。
この状況では、今世紀はじめ、アインシュタインの相対性理論が出現したときにあらわれていた状況と非常に近いように思われます。そこには、突然の、解決できないように思える矛盾によって具現化された、さらに明白な概念上の行き詰まりがありました。(中略)
数学上の観点からすると、アインシュタインの新しい考えは月並みなものでした。逆に、物理空間についての私たちのもつ概念の観点からすれば、これは深い変革であり、突然「異なった環境に置かれる」という状態でした。2400年前にユークリッドによってひき出された物理空間の数学的モデル、そして地上および星の力学的現象を叙述するためのに古来以来すべての物理学者、天文学者(ニュートンを含む)によって力学の必要性のためにそのまま引き継がれてきたもの以来の最初の大きな変革でした。(中略)
。。。幾何学にとってもっとも基本的な概念、つまり空間という概念(そして「多様体」という概念)、すなわち幾何学的存在が生きている「場」そのものについて私たちの持つ概念を覆すに至りました。
空間の新しい概念(一種の「一般化された空間」ですが、そこでは「空間」を作っていると考えられる点は多かれ少なかれ消えてしまっています)は、その実体において、アインシュタインが物理学に導入した概念とはまったく似ていません(アインシュタインの概念の方は、数学者にとって度外れなものでは全くありません)。これに対して、シュレディンガーによって発見された量子力学との比較が可能です。(中略)
そして昔の、人を安心させる粒子に取って替わったこれらの「確率の雲」が私に想起させるものは、強情な想像力がしがみついている、想像上の「点」を取り囲むために、影のうすい幻のように、トポスに充満している、捉えがたい「開近傍」なのです。。。。
この19節の脚注の中で、最初にあげたリーマンの文章を高く評価している部分がある。
もう15年あるいは20年になると思いますが、リーマンの全作品からなるささやかな本を紐解いていたとき、「通りすがりに」なされている彼の指摘に心を打たれました。そこで彼はつぎのような考察をしています。空間の究極的構造は「離散的」であること、私たちが空間に関して作っている「連続的」表現はおそらくより複雑な現実の(結局のところは、たぶん過度な)単純化となっていること、人間の精神にとって、「連続」は「不連続」よりずっと把握しやすいこと、したがって、それは不連続を理解するための「近似」として役立っているということがあり得るということです。これは、物理空間のユークリッド・モデルがまだ一度も問題に付されたことがなかった時期での、一数学者の口から出た驚くほど洞察力のある指摘だと思います。。。。
こうも言っている。
要約すると、期待される革新(これが再び起こるものとして。。。)は、物理学者からよりも、むしろ物理学の大問題によく通じている、根っからの数学者からやってくるだろうと私は予測しています。だがとくに、問題の核心を把握するためには、「哲学的に開かれた心」を持っている人物が必要でしょう。この問題の核心は、技術的な性質のものでは全くなく、「自然についての哲学」の基本問題だからです。
グロタンディークの言わんとする意味が分かるだろうか?
「物理学者からよりも、むしろ物理学の大問題によく通じている、根っからの数学者からやってくる」
たぶん、京大の望月新一博士だな。俺が思うに。他にできそうな奴はいない。
私はこの「数学者の孤独な冒険」が翻訳出版されてから事あるたびに読み直してきているが、なにせ「グロタンディークの数学」の部分が理解できないために、いまだに行ったり来たりしてきているというわけである。まさにブラウン運動である。いまだにはっきりと理解できないでいる。
しかしながら、最近になってやっと、少なくとも、湯川秀樹、岡潔、グロタンディーク、そしてかのリーマン、こういった人たちは同じ問題を見つめていたということだけは理解できるようになったというわけですナ。そして、保江邦夫博士もそうだ。
「空間の点(・)」ではないものでできている「空間のようなもの」
これはなにか?
これを知りたいのである。
保江博士の「素領域の上のブラウン運動」の理論は、空間の各点の上には、統計的アンサンブルがある。各点はそういうアンサンブルと見なければならない。そういう見方である。これは、岡潔博士の「位置だけが重要である」という発想
安定しているのは位置だけであって、内容は多分絶えず変っている。そう想像される。
と同じ感じのものである。そして、グロタンディークのいうところの
そして昔の、人を安心させる粒子に取って替わったこれらの「確率の雲」が私に想起させるものは、強情な想像力がしがみついている、想像上の「点」を取り囲むために、影のうすい幻のように、トポスに充満している、捉えがたい「開近傍」なのです。。。。
「トポスに充満している、捉えがたい「開近傍」」
いったいこれは何なのだろうか?
とまあ、そういうわけで、我々理論物理学者や数学者を侮ってもらっては困るのだ。我々は「次元」というものの考え方のかなり多様なアイデアを発見しているのである。
さらには、分数次元、フラクタル次元、こういうものまである。
ついでにメモしておくと、上でメモしたユークリッドの次元は、「数の並びの方向」の意味にすぎない。だから、数の集合のように、うまく序列がつくということが前提である。しかし、その序列は大きさで決めただけである。
つまり、お金持ち度を測るのに、預金残高で序列を付けるとか、偏差値一本槍でランクを付けるとかこういうものが、ユークリッドの次元の思想である。
しかし、それ以外に代数的に次元を作る。これが分数次元やフラクタル次元というものである。この場合は複雑度や入れ子構造の発達度の具合で序列を付けるわけである。つまり、頭の練れ具合でランクを付ける。こういう感じの次元である。だから、こういう次元は、「10次元です」というようなものとは異なる。むしろ、エントロピーのようなものに近い。情報エントロピーもその一つである。
場所ごとにそういう類の次元を貼り付ける。
どうもグロタンディークの思想はそういう感じのものに感じるのである。
いやはや、いまだに真理への道は遠い。http://quasimoto.exblog.jp/22058408/
\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 237: A reality of the division by zero $z/0=0$ by geometrical optics}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
\date{\today}
\maketitle
{\bf Abstract: } In this announcement, we shall state a reality of the division by zero $z/0=0$ by the reflection (geometrical optics) and from this fact we will be able to understand that the division by zero $z/0=0$ is natural in both mathematics and our physical world.
\bigskip
\section{Introduction}
%\label{sect1}
By {\bf a natural extension of the fractions}
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
for any complex numbers $a$ and $b$, we, recently, found the surprising result, for any complex number $b$
\begin{equation}
\frac{b}{0}=0,
\end{equation}
incidentally in \cite{s} by the Tikhonov regularization for the Hadamard product inversions for matrices, and we discussed their properties and gave several physical interpretations on the general fractions in \cite{kmsy} for the case of real numbers. The result is a very special case for general fractional functions in \cite{cs}.
The division by zero has a long and mysterious story over the world (see, for example, google site with division by zero) with its physical viewpoints since the document of zero in India on AD 628, however,
Sin-Ei, Takahasi (\cite{taka}) (see also \cite{kmsy}) established a simple and decisive interpretation (1.2) by analyzing some full extensions of fractions and by showing the complete characterization for the property (1.2). His result will show that {\bf our mathematics says} that the result (1.2) should be accepted as a natural one:
\bigskip
{\bf Proposition. }{\it Let F be a function from ${\bf C }\times {\bf C }$ to ${\bf C }$ such that
$$
F (b, a)F (c, d)= F (bc, ad)
$$
for all
$$
a, b, c, d \in {\bf C }
$$
and
$$
F (b, a) = \frac {b}{a }, \quad a, b \in {\bf C }, a \ne 0.
$$
Then, we obtain, for any $b \in {\bf C } $
$$
F (b, 0) = 0.
$$
}
\medskip
Furthermore, note that Hiroshi Michiwaki with his 6 year old daughter gave the important interpretation of the division by zero $z/0=0$ by the intuitive meaning of the division, {\bf independently of the concept of the product }(see \cite{ann}) . See \cite{ann} for the basic meanings of the division by zero.
We shall state a reality of the division by zero $z/0=0$ by the concept of reflection (geometrical optics). It seems that the common interpretations for the reflections for the center of a circle and the point at infinity are not suitable.
\section{Reflection points}
For simplicity, we shall consider the unit circle ${|z| = 1}$ on the complex $z = x +iy$ plane.
Then, we have the reflection formula
\begin{equation}
z^* = \frac{1}{\overline{z}}
\end{equation}
for any point $z$, as well-known (\cite{ahlfors}). For the reflection point $z^*$, there is no problem for the points
$z \neq 0, \infty$. As the classical result, the reflection of zero is the point at infinity and conversely, for the point at infinity we have the zero point. The reflection is a one to one and onto mapping between the inside and the outside of the unit circle.
However, we wonder the following common facts:
Are these correspondences suitable?
Does there exist the point at $\infty$, really?
Is the point at infinity corresponding to the zero point? Is the point at $\infty$ reasonable from the practical point of view?
Indeed, where can we find the point at infinity? Of course, we know plesantly the point at infinity
on the Riemann sphere, however on the complex $z$-plane it seems that we can not find the corresponding point. When we approach to the origin on a radial line, it seems that the correspondence reflection points approach to {\it the point at infinity} with the direction (on the radial line).
\section{Interpretation by the division by zero $z/0=0$}
On the concept of the division by zero, there is no the point at infinity $\infty$ as the numbers. For any point $z$ such that $|z| >1$, there exists the unique point $z^*$ by (2.1). Meanwhile, for any point $z$ such that $|z| < 1$ except $z=0$, there exits the unique point $z^*$ by (2.1).
Here, note that for $z=0$, by the division by zero, $z^*=0$. Furthermore, we can see that
\begin{equation}
\lim_{z \to 0}z^* =\infty,
\end{equation}
however, for $z=0$ itself, by the division by zero, we have $z^*=0$. This will mean a strong discontinuity of the function
\begin{equation}
W = \frac{1}{z}
\end{equation}
at the origin $z=0$; that is a typical property of the division by zero. This strong discontinuity may be looked in the above reflection property, physically.
\section{Conclusion}
{\Large \bf Should we exclude the point at infinity, from the numbers?} We were able to look the strong discontinuity of the division by zero in the reflection with respect to circles, physically ( geometrical optics ).
The division by zero gives a one to one and onto mapping of the reflection (2.1) from the whole complex plane onto the whole complex plane.
{\Large \bf The infinity $\infty$ may be considered as in (3.1) as the usual sense of limits,} however, the infinity $\infty$ is not a definite number.
\bigskip
\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{ahlfors}
L. V. Ahlfors, Complex Analysis, McGraw-Hill Book Company, 1966.
\bibitem{cs}
L. P. Castro and S.Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
\bibitem{kmsy}
S. Koshiba, H. Michiwaki, S. Saitoh and M. Yamane,
An interpretation of the division by zero z/0=0 without the concept of product
(note).
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{mst}
H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Takagi,
A new concept for the point at infinity and the division by zero z/0=0
(note).
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{taka}
S.-E. Takahasi,
{On the identities $100/0=0$ and $ 0/0=0$}
(note).
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields, Tokyo Journal of Mathematics (in press).
\bibitem{ann}
Announcement 185: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics,
Institute of Reproducing Kernels, 2014.10.22.
\end{thebibliography}
\end{document}
再生核研究所声明236(2015.6.18)ゼロ除算の自明さ、実現と無限遠点の空虚さ
(2015.6.14.07:40 頃、食後の散歩中、突然考えが、全体の構想が閃いたものである。)
2015年3月23日、明治大学における日本数学会講演方針(メモ:公開)の中で、次のように述べた: ゼロ除算の本質的な解明とは、Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、 強力な不連続性を universe の自然な現象として受け入れられることである。数学では、その強力な不連続性を自然なものとして説明され、解明されること が求められる。
そこで、上記、突然湧いた考え、内容は、ゼロ除算の理解を格段に進められると直観した。
半径1の原点に中心を持つ、円Cを考える。いま、簡単のために、正のx軸方向の直線を考える。 その時、 点x (0<x<1)の円Cに関する 鏡像 は y = 1/x に映る。この対応を考えよう。xが どんどん 小さくゼロに近づけば、対応する鏡像 yは どんどん大きくなって行くことが分かる。そこで、古典的な複素解析学では、x =0 に対応する鏡像として、極限の点が存在するものとして、無限遠点を考え、 原点の鏡像として 無限遠点を対応させている。 この意味で 1/0 = ∞、と表わされている。 この極限で捉える方法は解析学における基本的な考え方で、アーベルやオイラーもそのように考え、そのような記号を用いていたという。
しかしながら、このような極限の考え方は、適切ではないのではないだろうか。正の無限、どこまで行っても切りはなく、無限遠点など実在しているとは言えないのではないだろうか。これは、原点に対応する鏡像は x>1に存在しないことを示している。ところが、ゼロ除算は 1/0=0 であるから、ゼロの鏡像はゼロであると述べていることになる。実際、鏡像として、原点の鏡像は原点で、我々の世界で、そのように考えるのが妥当であると考えられよう。これは、ゼロ除算の強力な不連続性を幾何学的に実証していると考えられる。
ゼロ以上の数の世界で、ゼロに対応する鏡像y=1/xは存在しないので、仕方なく、神はゼロにゼロを対応させたという、神の意思が感じられるが、それが この世界における実態と合っているということを示しているのではないだろうか。
この説は、伝統ある複素解析学の考えから、鏡像と無限遠点の概念を変える歴史的な大きな意味を有するものと考える。
以 上
付記 下記図を参照:
再生核研究所声明232(2015.5.26)無限大とは何か、無限遠点とは何か。― 驚嘆すべきゼロ除算の結果
まず、ウィキペディアで無限大、無限遠点、立体射影: 語句を確認して置こう:
無限大 :記号∞ (アーベルなどはこれを 1 / 0 のように表記していた)で表す。 大雑把に言えば、いかなる数よりも大きいさまを表すものであるが、より明確な意味付けは文脈により様々である。例えば、どの実数よりも大きな(実数の範疇からはずれた)ある特定の“数”と捉えられることもある(超準解析や集合の基数など)し、ある変量がどの実数よりも大きくなるということを表すのに用いられることもある(極限など)。無限大をある種の数と捉える場合でも、それに適用される計算規則の体系は1つだけではない。実数の拡張としての無限大には ∞ (+∞) と -∞ がある。大小関係を定義できない複素数には無限大の概念はないが、類似の概念として無限遠点を考えることができる。また、計算機上ではたとえば∞+iのような数を扱えるものも多い。
無限遠点 : ユークリッド空間で平行に走る線が、交差するとされる空間外の点あるいは拡張された空間における無限遠の点。平行な直線のクラスごとに1つの無限遠点があるとする場合は射影空間が得られる。この場合、無限遠点の全体は1つの超平面(無限遠直線、無限遠平面 etc.)を構成する。また全体でただ1つの無限遠点があるとする場合は(超)球面が得られる。複素平面に1つの無限遠点 ∞ を追加して得られるリーマン球面は理論上きわめて重要である。無限遠点をつけ加えてえられる射影空間や超球面はいずれもコンパクトになる。
立体射影: 数学的な定義
•
• 単位球の北極から z = 0 の平面への立体射影を表した断面図。P の像がP ' である。
• 冒頭のように、数学ではステレオ投影の事を写像として立体射影と呼ぶので、この節では立体射影と呼ぶ。 この節では、単位球を北極から赤道を通る平面に投影する場合を扱う。その他の場合はあとの節で扱う。
• 3次元空間 R3 内の単位球面は、x2 + y2 + z2 = 1 と表すことができる。ここで、点 N = (0, 0, 1) を"北極"とし、M は球面の残りの部分とする。平面 z = 0 は球の中心を通る。"赤道"はこの平面と、この球面の交線である。
• M 上のあらゆる点 P に対して、N と P を通る唯一の直線が存在し、その直線が平面z = 0 に一点 P ' で交わる。Pの立体射影による像は、その平面上のその点P ' であると定義する。
無限大とは何だろうか。 図で、xの正方向を例えば考えてみよう。 0、1、2、3、、、などの正の整数を簡単に考えると、 どんな大きな数(正の) n に対しても より大きな数n + 1 が 考えられるから、正の数には 最も大きな数は存在せず、 幾らでも大きな数が存在する。限りなく大きな数が存在することになる。 そうすると無限大とは何だろうか。 普通の意味で数でないことは明らかである。 よく記号∞や記号+∞で表されるが、明確な定義をしないで、それらの演算、2 x∞、∞+∞、∞-∞、∞x∞,∞/∞ 等は考えるべきではない。無限大は普通の数ではない。 無限大は、極限を考えるときに有効な自然な、明確な概念、考えである。 幾らでも大きくなるときに 無限大の記号を用いる、例えばxが どんどん大きくなる時、 x^2 (xの2乗)は 無限大に近づく、無限大である、無限に発散すると表現して、lim_{x \to +\infty} x^2 =+∞ と表す。 記号の意味はxが 限りなく大きくなるとき、x の2乗も限りなく大きくなるという意味である。 無限大は決まった数ではなくて、どんどん限りなく 大きくなっていく 状況 を表している。
さて、図で、 x が正の方向で どんどん大きくなると、 すなわち、図で、P ダッシュが どんどん右方向に進むとき、図の対応で、Pがどんどん、 Nに近づくことが分かるだろう。
x軸全体は 円周の1点Nを除いた部分と、 1対1に対応することが分かる。 すなわち、直線上のどんな点も、円周上の1点が対応し、逆に、円周の1点Nを除いた部分 のどんな点に対しても、直線上の1点が対応する。
面白いことは、正の方向に行っても、負の方向に行っても原点からどんどん遠ざかれば、円周上では Nの1点にきちんと近づいていることである。双方の無限の彼方が、N の1点に近づいていることである。
この状況は、z平面の原点を通る全ての直線についても言えるから、平面全体は球面全体からNを除いた球面に 1対1にちょうど写っていることが分かる。
そこで、平面上のあらゆる方向に行った先が存在するとして 想像上の点 を考え、その点に球面上の点 Nを対応させる。 すると、平面にこの想像上の点を加えた拡張平面は 球面全体 (リーマン球面と称する) と1対1に 対応する。この点が 無限遠点で符号のつかない ∞ で 表す。 このようにして、無限を見ることが、捉えることができたとして、喜びが湧いてくるのではないだろうか。 実際、これが100年を越えて、複素解析学で考えられてきた無限遠点で 美しい理論体系を形作ってきた。
しかしながら、無限遠点は 依然として、数であるとは言えない。人為的に無限遠点に 代数的な構造を定義しても、人為的な感じは免れず、形式的、便宜的なもので、普通の数としては考えられないと言える。
ところが、ゼロ除算の結果は、1 / 0 はゼロであるというのであるから、これは、上記で何を意味するであろうか。基本的な関数 W=1/z の対応は、z =0 以外は1対1、z =0 は W=0 に写り、全平面を全平面に1対1に写している。 ゼロ除算には無限遠点は存在せず、 上記 立体射影で、 Nの点が突然、0 に対応していることを示している。 平面上で原点から、どんどん遠ざかれば、 どんどんNに近づくが、ちょうどN に対応する点では、 突然、0 である。
この現象こそ、ゼロ除算の新規な神秘性である。
上記引用で、記号∞ (アーベルなどはこれを 1 / 0 のように表記していた)、オイラーもゼロ除算は 極限の概念を用いて、無限と理解していたとして、天才 オイラーの間違いとして指摘されている。
ゼロ除算は、極限の概念を用いて得られるのではなくて、純粋数学の理論の帰結として得られた結果であり、世の不連続性の現象を表しているとして新規な現象の研究を進めている。
ここで、無限大について、空間的に考えたが、個数の概念で、無限とは概念が異なることに注意して置きたい。 10個、100個、無限個という場合の無限は異なる考えである。自然数1,2,3、、、等は無限個存在すると表現する。驚嘆すべきことは、無限個における無限には、幾らでも大きな無限が存在することである。 例えば、自然数の無限は最も小さな無限で、1cm の長さの線分にも、1mの長さの線分にも同数の点(数、実数)が存在して、自然数全体よりは 大きな無限である。点の長さはゼロであるが、点の集まりである1cmの線分には長さがあるのは、線分には点の個数が、それこそ目もくらむほどの多くの点があり、長さゼロの点をそれほど沢山集めると,正の長さが出てくるほどの無限である。
以 上
世界中で、ゼロ除算は 不可能 か
可能とすれば ∞ だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。
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