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大西宏2015年08月29日 09:14選考のあり方にさらに疑問に感じさせた佐野さんの最初のデザイン案
佐野研二郎氏の最初のデザインが公表されました。ありきたりなTに赤い丸を置いただけの、まったくオリジナリティに欠け、バランスも悪いデザインです。この案が選ばれたとすると、他の対抗案がよほどレベルが低かったということでしょうか。そうでなければ最初から結論ありきだったのではないかとすら疑いたくなる代物です。
original
佐野研二郎氏のエンブレム、原案から決定案までの過程が判明
一言でグラフィックデザインといっても、写真や文字、図形、ロゴタイプなどをレイアウトしていく広告デザインの分野と、オリジナルなかたちを追求していくシンボルマークデザインや文字を造形するタイポグラフィの分野ではかなり発想の仕方もデザインを作成する方法も、求められる知識やスキルも違います。
佐野さんは他の作品を見ても、いかにも広告デザイナー的なデザインで、シンボルデザインやタイポグラフィをデザインするタイプの方ではありません。たんにありものの文字や図形を組み合わせ、レイアウトし、微修正するだけなので、類似作品も自然多くなってしまいます。佐野研二郎さんのデザインでつぎつぎに類似したものがでてくるのもそれが理由だと思います。
当然商標でも類似したものが出てくるリスクが高く、選考した人たちが直感的にそれを予測できなかったとは驚きです。その選考のなかにシンボルデザインの実績もある永井一正氏がはいっていたことも信じられないことですが、しかも類似商標がでてきたために原案を大幅に修正したというのはデザイン決定の手順が違います。候補案を絞り、類似がないかを調査して、最終的にデザインを決定するのが筋です。
そういったことを考慮すると、ネットで囁かれている「出来レース」だったという風評もあながち否定できなくなってきます。どうも選考委員の方も佐野さんのお仲間のようですが、閉鎖的で特殊な村社会が生み出した出来事なのかもしれません。
それで思い出したことがあります。昔、イギリスのデザイン会社と仕事をしていたこともあって、その関係から、イギリスのデザイン雑誌から依頼を受け、記者が日本の著名デザイナーの人たちへの取材を通訳を含めサポートしてくれたスタッフがいました。
そのスタッフによると、その時に、取材を終えた記者が、イギリスのデザイン界と日本のデザイン界の根本的な考え方の違いに驚いていたというのです。イギリスのどの著名デザイナーも、イギリスのデザインは今こんなトレンドでこんな潮流があるけれど、自分は、彼らとは全く違う独自のデザインを追求していると主張するのに対して、日本のデザイナーは、どの著名デザイナーも、自身が日本のデザインのトレンドや潮流の中心にいることを強調したそうです。
もしかすると「群れる」のが好きな素地、オリジナリティよりも権威に重きを置くDNAがあって、それが引き継がれ、仲間内の狭い世界をつくってきたのかもしれませんね。http://blogos.com/article/130892/
確かに、いい感じではなく、選考に、評価に大いに問題が有るように感じられますね。
再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)
世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
(再生核研究所声明1)。
相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。
以 上
4.32 価値の評価、価値の創造について(2008/1/1):
価値について次のような考えが湧いてきました。
小倉金之助の件と美空ひばりさんの件について、ここ数日触れてきましたが。Butzer氏達の未完の論文原稿によりますと 非常に面白く、しかも大事なサンプリングの定理が発表されたにもかかわらず、72年も注目されず、結局ドイツ人によって発見されて、世に出たという事実です。これは日本人として極めて残念な事ではないでしょうか。面白く、大事な結果が注目されなかったという事実です。私は相当なことを その定理について知っていますが、1000編を超える論文、6、7冊の専門書、専門雑誌さえその定理ついて創刊され、応用数学、電子通信論の分野で重要な役割を果しているのです。その大事な定理が 日本人によって発見されていたという事です。しかしながら、それらは殆ど、世界に寄与することなく、29年後(1949年)に発表されたシャノンの寄与によって世界に出たという事になります。- 大きな価値あるものを失ったことにはならないでしょうか。価値が評価できない、良いものが分からない。これは問題ではないでしょうか。良いものを良い、面白いものは面白と感じる感性が無ければ、これは問題ではないでしょうか。
美空ひばりさん についても同様に言えると思います。第1級の評価を日本が出来るかどうかは、日本国の文化力の問題に帰するのではないでしょうか。それは帰する所、人生、世界に対する考え方が、きちんとしているか いないか に関わり、価値あるものとは何か が分からなければ できないことであると考えます。何れにせよ文化の力は重要であり、それは永い時間をかけて作られていくもの考えます。
美空ひばりさんを大事にする事は、100万人の軍隊以上の国防の効果が期待できると 簡単な表現をしました。国を思う気持ち、共通の文化的な精神を共有する事は、自由競争で索漠とした国に対して、比べる事が出来ないほどの力を発揮すると考えます。一体感のある国と ばらばらな国を 比較してみてください。そうすれば、真実、本当の事であると分かっていただけるのではないでしょうか。
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