2015年8月24日月曜日

記事 PRESIDENT Online2015年08月22日 14:00親の介護「早く死んで」と心で叫ぶ私は冷血か - 介護の常識・非常識【7】

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PRESIDENT Online2015年08月22日 14:00親の介護「早く死んで」と心で叫ぶ私は冷血か - 介護の常識・非常識【7】




親を敬愛する心が、完全に失われる日
介護ドキュメント(http://president.jp/articles/-/12179)の項でも書きましたが、私が父の介護をし、看取った時、「介護は悲しい努力だな」とつくづく思いました。

希望に向かってする努力、何か明るい結果を求めてする努力は、やり甲斐があるものです。親の介護が始まった時は、介護をする側も気が張っていますし、よりよい介護をすれば親の状態が良くなるのではないかという思いもあって、そうした前向きの努力をします。ケアマネージャーにアドバイスを求めたり、本やネットで情報を集めたりするなど、よい結果を求めて介護の知識や技術を身につけるわけです。

実際、その努力が報われるケースもないわけではありません。

適切な介護によって心身の状態が改善され、要介護度が軽くなる人もいる。寝たきりに近かった人が、散歩できるまでに回復することもあるそうです。心身の状態が良くならないまでも、親が何かに喜びを感じ笑顔を見せれば、子としてもうれしいもの。また、子が自分のためにしてくれていることを感謝し「ありがとう」のひと言でも言ってくれた時は、努力も報われたと感じることができます。

しかし、事態がそうした明るく前向きな方向に向かうことは圧倒的に少ない。

老いによって衰え要介護になるわけですから、体の状態が良くなることは望めず現状維持が精一杯。認知症が発症し進行するようにもなります。そうした状態の悪化に伴い、介護者の苦労、心身の疲労は増していきます。

私の場合は思いがけず父の病状の進行が速く、介護は実質1カ月半で終わりました。それでも精神的、肉体的に疲労困憊しましたし、介護に対する心境も変化していきました。

ある時は前向きになり、ある時は後ろ向きになる。

そんな具合で心境は日々微妙に変わりましたが、今あの1カ月半を振り返ると、大きく3期に分かれたように思います。

最後は、死ぬ……。「悲しい努力」の徒労感
● 1期(最初の2週間)
ある日、父が突然寝たきりになり、介護は始まった時は事態に対応するだけで精一杯。ただ、ケアマネージャーをはじめ訪問看護師さんなども、父の状態を少しでも良くしようと尽力してくれたので、それを信じアドバイスに従いました。前向きの努力をしていたわけです。

● 2期(3~4週目)
それから2週間ほどすると、介護に必要な用品、受けるサービスなどの介護態勢は整いました。が、肝心の父はふさぎ込むようになった。また、不眠を訴え、私を夜中に頻繁に起こすようになったため、こちらも疲れが出てきました。まだ、状態は良くなるという望みは失っていませんでしたが、その一方で、こんな日々がいつまで続くのだろうという不安も生まれました。この頃から認知症の症状が出始めます。

● 3期(5週目以降)
その2週間後、つまり介護が始まって1カ月ほどした頃、認知症で父の言動がおかしくなり、「もう良くなるのは無理かもしれないな」と思うようになりました。そしてさらに2週間が経った頃、父の症状が急変し病院に搬送され、1カ月ほど入院した後、息を引きとりました。

父が亡くなった時はさまざまな感情が錯綜しました。もちろん最初に感じたのは悲しみです。会話の多い親子ではありませんでしたが、互いを理解していたと思いますし恩も感じていました。

その父を亡くした喪失感は大きかった。

ただ、その一方で、どこかに「これで介護は終わったんだ」という安堵感もありました。次に少し冷静になると「あの介護に忙殺された1カ月半はなんだったのだろう」という思いもふつふつと生まれました。徒労とは思いませんでしたが、した努力が好結果に結びつかなかったむなしさがどこかにあったのです。

介護に対する努力というものは、多くがこのように「死」で終わるものだと思います。だから「悲しい努力」と感じたわけです。

介護が1か月半という短期間で終わった私でさえ、こんなことを思う。数年にわたる長期間の介護をしている方、された方は私とは比べものにならない苦労、膨大な努力をしているはずです。そんなふうに思う方も多いのではないでしょうか。

介護長期化で、親が死んでも「絶対許さない」
親しくなったケアマネージャーのFさんは言います。

「介護する方の性格や親子関係によっても異なりますが、介護が長期にわたる人の多くが、心のどこかで親の死を望んでいることを感じます」

介護ではさまざまな負の連鎖が起こります。

「老親の『シモの始末』平静を装う息子・娘と、『手を貸さぬ』人との軋轢」(http://president.jp/articles/-/15800)に書いたように家族で介護をする場合は、家族間での軋轢が生じることもある。兄弟で分担する場合は、負担の多寡で不仲になることもある。ひとりで背負い込んだ場合は、疲弊し日常生活や仕事にも影響が出る。

そのため、介護離職ということにでもなれば経済的にも困窮する。親子関係や認知症の症状などによっては、放置や虐待といった無残な状況にもなりかねない。

それらの解決策のひとつが施設で面倒を見てもらうことだが、それで親子が対立することもあるし、納得してくれたとしても特別養護老人ホームなど経済的な負担の軽い施設に入るのは順番待ちで入るのは不可能に近い。かといって入りやすい介護付き有料老人ホームなどは負担が重い。

そんなこんなで介護する人や家庭はさまざまな心労を抱え、追い詰められていくわけです。子が親の死を望むなんて倫理的には許されないことですが、追い詰められた人が心のどこかでそんなことを考えるのは無理もないことではないでしょうか。

介護が短期で終わるか、長期にわたるかの違いは、親の死後にも影響を与えるそうです。これも人によるそうですが、1年程度の短期で終われば、介護でさまざまな苦労をしたとしても、水に流せる。

「いろいろあったけど、いいお父さんだったね」

と死後も敬愛し続けられるそうです。

しかし、これが5年、6年といった長期にわたると、嫌なエピソード、たとえば、

「あの時、あんな酷いことを言われた」「こんな面倒をかけられた」

といったことが積もり積もって、死後も許せないと思い続ける人がいるとか。ここまで人間の感情を傷つける介護は悲しすぎます。

こうした状況についてFさんに問いかけると、

「これまで介護は要介護者のケアを主眼に置き、そのための施策に重点を行なってきました。もちろんそれも重要ですが、今後はケアラーのケアに力を入れていくべきだと思いますね」

という答えが返ってきました。

「ケアラー」とは初めて聞く言葉でしたが、介護をする人のことをいうそうです。

介護の主体は要介護者のケアを行なうケアラー。介護でさまざまな苦労やトラブルを背負い込み、悩み、精神的にも肉体的、金銭的にも追い詰められている人たちをケアする仕組みを考えなければ、より良い介護などできないというわけです。

ケアラーの支援の仕組みやそのための施策の研究などを行なっている「日本ケアラー連盟」という組織もあり、その重要性を啓蒙しているところだそうです。たしかに要介護者が増え続ける今後は、ケアラーにならざるを得ない人も増えるわけで、サポートする仕組みづくりは急務でしょう。

次回は、ケアラーのケアについて書こうと思います。http://blogos.com/article/129620/

そのような心情は有るのでは?
人間ただ生きれば良いとはならず、意義も求めるのでは。
しかし、生きて存在しなければ始まりませんね。

再生核研究所声明 47(2011.02.08):  肯定死

(2011年1月5日 9時10分、 浅草に近づき、電車の窓外の空を見たときに電光のように閃いた考えです。 新しい声明の案がひとりでに、わきました。 全構想は瞬時にできていましたが、それを検討し、成文化したものです。 題名は肯定死、という 現代では問題のある思想です。人間の終末に対する新しい考え方です。これは社会的影響が大きいと考えられるので、全文は 当分、公表を差し控えたい。)

そもそも人生とは何か、これを内からみれば、人生とは、個人の考え、知り、感じ、予感し、想像する、すなわち、知覚する全体であり、それらが良いと感じられれば、それだけ良い人生であると言える(声明12: 人生における基本定理)。 しかしながら、我々はまず、個々の人間を越えて、存在し、生き続けていく、 元祖生命体の考え (声明36) をしっかりととらえ、 生命の基本定理 (声明42) - 生きて存在しなければ、 何も始まらない - 元祖生命体の生存に心がける、 最も大事なこと(声明13)に思いを致すべきである。しかしながら、個々の人間は、遺伝子の乗り物のように滅びていくのが、事実であり、それはあらゆる生物の運命であると考えられる。 しからば、その人間の終末は如何にあるべきか。 それはちょうどあらゆる生物の終末のように、意識の存在の有る無しに関わらず、生物個体の生命として、人事を尽くして、少しでも生命を長引かせると考える、伝統的な考えは それなりの固有な意義を有するものであると考える。 否定するものではない。(以下 当分非公開)



再生核研究所声明 63 (2011.05.25) : 
解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得

人が世に生まれ、終末を迎えるに当たって、できれば、人生を肯定的にみて、安らかな終末を迎えたいと考えるのは 相当に基本的な願いではないかと考える。そこで、再生核研究所声明においても、 再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道、再生核研究所声明 57:人生とは何か、人生如何に生きるべきか などで、ふれ、人生の意義などについても、再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について などでふれている。 しかるに、

2011.5.14.08:40 宿舎から研究室に向かっているとき、無意識に歩けるとは 何と素晴らしいことだろう、と思い巡らして歩いていたら、 突然、 解脱という言葉が 湧いてきて、 その意味を理解できました。 その意味は 暫く、検証するとして、効果は、死の現象をのりこえて、 永遠の生命に 帰依することが できるだろうと 直観した。

と 直ちに書き留めておいたように、理由もなく解脱の言葉が湧いてきて、その本質を直観したような経験をした。 そこで、 その背景を言葉で表現して、解脱への暗示、ヒントとしたい。 このような見方が、神、自由、不死に至る道、1種の悟り、安らかな終末を迎える心構えになると考える。

人間とは何だろうか、 人生とは そもそも何だろうか。 多くの人は毎日歩いているが、 しかし、 考えて歩いているのは、意識して歩いているのは殆どないと言える。 すなわち、私たちは無意識のうちに歩いているのである。 それと同じように、 恋をして子供を儲けたり、育ててきたりしていますが、 人生の殆どは 本能のような 何かに動かされて生きてきているとも言えます。 我々の意識する世界とは、 我々の大きな生命のいとなみからすると、ほんの僅かな部分に過ぎないことが分かる。 なぜ生まれてきて、 どうなって行くのかも分からないのが、 人間であり、 人生と言えます。 我々を世に送り、その本質部分を動かしているのは、元祖生命体の 生命のいとなみ自身 ではないでしょうか。 その雄大な生命の一部を ほんの少し、担っているのが 人生ではないでしょうか。 雄大な生態系の ほんの一部を になっている のが人生であり、人間ではないでしょうか。
私たちは、その雄大な生命、元祖生命体のほんの一部ですから、我々の仮想的な部分が消えてもその本質である元祖生命体は永続していく 雄大な存在と言えます。 解脱とは、 仮想的な個人、 人間を離れて、超えて、その雄大な生命に帰依することではないでしょうか。我々のうちには、元祖生命体の本質が内在していて、ここの固体を超えた 大きな生命に通じているのではないでしょうか。 ここの固体から、その永遠の生命を直観するには 世の現象を真面目に見つめ、 自分の内なる世界を見つめれば、自然に湧く信仰として、実現するのではないでしょうか。 ここに朽ち果てていく 自分の生体がある、 その魂は 上記 雄大な生命の一部として、永続していくが、 元祖生命体の乗り物である生物個体としては、滅びていかざるを得ない。 また、元祖生命体の いとなみの全貌、目標などは 知ることもできない。 しかしながら、人間、人生が雄大な生命活動のほんの一部の活動であり、我々が知り、感じ、想像する世界は 実は幻のように儚い 小さものであることを知ることは、 神、自由、不死を感得し、悟りへの道になると考える。
個々の人間の生体は、元祖生命体の、 たとえば、人体の中の一細胞のような存在と考えられよう。
多くの芸術家や数学者は、己が生命の活動として、作品や理論を創作しているが、実は、それらは厳然として実在していたものを 生命活動としての情念によって 内なる生命が働きかけて 形に成ったもので、 実は 自分が創造したものでも、努力して作ったものでもないと言えるのではないでしょうか。 それらの背景には 元祖生命体の 生命体の発露 の一部を見ることができる。
もしわれわれが、 大いなる生命を実感したいと思うならば、絶壁に立ったり、死の面前に立って、われ死するべきかと自らに問えば、 内なる生命は、 単なる自己の意識や感情を越えて、否、それを阻止する 大いなる生命の叫び を感得することができるだろう。 また、親族や民族や友人や親しむ動物や植物に、 それと同じような、共感と共鳴を感じるならば、自己を越えた、大いなる大義に目覚めるときでもあると言える(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。 ― このような文章自体、私が書いたものではなくて、実は、上記 元祖生命体の生命の叫びとして、私を通して、表現しているものと言える。
以 上

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