「自分に与えられたカードで、人生のゲームに挑みなさい」~ムヒカ前大統領夫人ルシアさんの言葉~<世界でいちばん質素な大統領夫人が教えてくれたこと>
日本は豊かなのだけれども――
ムヒカ前大統領とルシアさんは、2016年4月、初来日した。インタビューをしたのは、その2か月後のことだった。ルシアさんは、日本の印象をこう話してくれた。
「日本は遠いですね。経由地のドイツまで11時間、そこから東京まで11時間。でも、なんとか到着できました。日本の街で好きだったのは京都。人がフレンドリーで、お寺もよくって……。ちょうど桜の時期で、とっても素敵だった。広島の平和記念公園は本当に衝撃的でいちばん印象に残りました。東京は……そうね、建物が多すぎて、人も多すぎて……」
「本当にそう思います。だから、私は最近、東京から田舎に引っ越したんですよ」と私が言うと、ルシアさんは、
「私も引っ越したくなると思いますよー」
と笑いながら賛同してくれた。ルシアさんたちも、モンテビデオから車で40分の農村地帯に暮らしているのだ。都会暮らしは性に合わないのだろう。
と笑いながら賛同してくれた。ルシアさんたちも、モンテビデオから車で40分の農村地帯に暮らしているのだ。都会暮らしは性に合わないのだろう。
ルシアさんは、東京外国語大学で講演をしたこと、小学生と交流して歌ってもらったこと、お酒の熱燗とお冷を飲んだこと、日本人がとても親切だったことなども話してくれた。
でも、少しちがう見方をしていたのかもしれないとも思う。
ムヒカさんも、ルシアさんも子どものころから、ウルグアイにいた日本人と親しくしていた。ムヒカさんは貧しい生活を支えるために、花農家の日系移民に花の育て方を教えてもらっていた。彼らは勤勉でよく働き、わずかなもので満ち足りた暮らしをしていたという。
それがのちに、ムヒカさんはこう語っているのだ。
「効率や成長一辺倒の西洋文化とはちがった別の文化、別の暮らしが日本にはあったはずだろう。それを突然、全部忘れてしまったような印象が私にはある」
経済も技術も大きな発展をして、結局、日本人は幸せになれたのですか?と、
遠い昔の話ではない。私たち日本人は、都市にどんどんビルを造り、地方にショッピングセンターを造って大量に物を生産し、大量に消費するために人生の大半の時間を使ってきた。まわりの空気に従っているうちに、生活スタイルや考え方までも、経済社会に沿った合理的なものに取って代わった。
経済発展したことや、異文化を取り入れてきことがいけないわけではない。ただ、それが幸せを阻害するものであってはいけないということだ。日本人がよりよく生きるために大事に培ってきた根本的な“考え方”や“知恵”や“才能”といったものが置いてきぼりになってきた気がする。
私たちは生まれた環境からぬけることはできない
ルシアさんは、「私たちは自分たちの歴史と伝統を知らなきゃいけない」と何度か口にした。
そして、ルシアさん自身も、歴史の本を身近に置いていて、ウルグアイの歩んできた道について話してくれた。「私たちは、生きている環境から離脱することはできない」とも言った。
それは、「その環境における、自分の生きる意味を見つけなさい」ということだけでなく、「自分自身のことをよく知って、自分のもっているもので、自分らしい幸せを求めなさい」ということでもあったのだろう。私たちは「もっと、もっと」と経済的な豊かさを求めて忙しくなり、日々の幸せを感じることを忘れているのではないか。
ルシアさんたちが、かつて日本に敬意をもったのは、日本の伝統や文化などもあるが、日本人の真面目さや誠実さ、謙虚さ、家族やまわりの人を大切にする気持ち、そして、少ないもので豊かに暮らす精神に共感したからなのだと思う。
ルシアさんたちが、かつて日本に敬意をもったのは、日本の伝統や文化などもあるが、日本人の真面目さや誠実さ、謙虚さ、家族やまわりの人を大切にする気持ち、そして、少ないもので豊かに暮らす精神に共感したからなのだと思う。
日本にはもっているものを大切にする精神があった
日本には、昔から「足るを知る」とか「腹八分目」という言葉が使われてきた。食欲だけでなく、物欲や金銭欲、権力欲などが際限なくあることや、利己的であることを恥とし、己を律すること、他人を思いやることを美徳としてきたのではないだろうか。
ウルグアイも「もっているものを大切にする」という精神がある国だ。
街のなかにある建物や、家庭で使われている道具は、昔から使われてきたものだし、1930年にワールドカップ第1回が開かれたエスタディオ・センテナリオ・スタジアムは、いまはサッカー競技だけでなく、小学校としても使われている。ガウチョ(カウボーイ)は、義理堅くて勇敢な武士道と共通の精神をもっていて、だれからも尊敬されている。
さまざまな国を旅してきたが、魅力的だと思うのは、自分たちのもっているものを大事にして、誇り高く生きている人びとだ。グローバリゼーションの波に流されて、自分たちにそぐわないものを求めると、途端に貧相な人びと、貧相な街並みになってしまうのも、目の当たりにしてきた。国際化とは、安易に相手に合わせることではなく、お互いにもっているものを認めながら、生かし合っていくことなのだと思う。
これは、国際間の話だけではなく、身近な人間関係にも当てはまるのかもしれない。まわりに流されず、自分らしく生きている人は、魅力的だ。ただ同じようにしようとするのではなく、お互いがもっているもの、できることで協力していけば、仕事の関係も、夫婦の関係も、地域との関係も、強いチームワークになっていくのだろう。
ほんとうの貧しさとは、自分にないものを嘆くことだ
ルシアさんたちは、貧困層だけでなく、女性や子どもたち、マイノリティの黒人の人、障がい者の人、同性愛者の人にも目を向けてきた。同性愛者の結婚を合法化し、さまざまな人が住居の権利を得たり、平等に生きるための法律や政策にも着手した。
「だって、人類はできるだけ幸せにならないといけないでしょう? ウルグアイの独立指導者ホセ・ヘルバシオ・アルティガスが、人びとの公共の幸せを勝ち得るために闘うのだと言っていました。そのキーワードは、いまでも通用しています」
約200年前、戦争で夫を亡くしたシングルマザーのためにも、土地を分配したのだという。
「まわりの人を幸せにすることが、自分の幸せにつながっていく」という精神は、ウルグアイでも日本でも昔から根底にあった。それは、人間の本質的なものなのだろうが、そんな基本的なことを、私たちは忘れかけている。女性でも、障がい者でも、同性愛者でも、外国人でも、病気の人でも、だれもが社会の一員として生きる権利がある。だれもができることがあり、幸せになれるはずだ。
女性であれば“女性だからこそ”できることがある。若者だからこそできること、高齢者だからこそできることがある。病気になったから学べること、少ないお金で楽しめることもある。そして、自分だからこそできることもある。
ほんとうの貧しさとは、自分にないものを嘆くことだ。
もっているもので幸せになろうとすることが、どんな場所でも、どんな時代でも、どんな状況でも、豊かに、誇り高く生きていくことなのだと思う。
ほんとうの貧しさとは、自分にないものを嘆くことだ。
もっているもので幸せになろうとすることが、どんな場所でも、どんな時代でも、どんな状況でも、豊かに、誇り高く生きていくことなのだと思う。
「まず自分がどんな人間であるかを知らなければいけなくて、そして自分に正直でなければならない」と言ったルシアさんのもつ誇り高いオーラは、つねに自分らしく生きてきた証なのだろう。その生きる姿勢は、とても真剣で勇敢であるけれども、「どこまで行けるのか」と人生のゲームを夢中になって楽しんでいるようにも見える。
私たちは、与えられたカードでじゅうぶんに闘っていけるし、ゲームを楽しめるのだ。http://blogos.com/article/193403/
再生核研究所声明 12 (2007/09/17): 人生、世界の存在していることの意味について
天才教育や世界の在りようについて考えていましたら、結局は人生とは何か、存在している意味、目的が大事であると考えました。なぜならば この世の全ての問題は 結局はひとりひとりの心の問題に帰するからです。そこで、次の文章を思い出したので引用して、全ての基礎にしたいと考えます:
人生における基本定理
・・・ 1995年1月13日朝、目覚めの後、ひとりでに数学のアイディアがうかんだときのように、
「人生の意義は、 ・・・・・・ にある」
という言葉がわいてきた。
私はもの心ついてから: 自分が生きていること、そして死ななければならないことを知って以来、人生そのものの意味について、最も中心的な問題として考えてきた。その核心は、人間は生まれ、生き、死んでいくものであるが、それらがどのような意味があるのか、そして、そのような人生においてどれ程の価値があるのか、という半ば悲観的な見方:
実際、人生は何の意味もないのに、人は死にたくないから、そして人並みにあるいは人並み以上になりたいから、あるいは人に尊敬されたいから等の漠然とした気持ちで生きているのではないか、と。また、そのような人生、人間の目標はどのようなものか、という基本的な問題への疑問であった。
「人間としての存在の究極の意味、価値は」
「人類の目指すべき基本的な方向とは」
これらの基本的な問いについて、私が、全体的に、直観として得た解は、
「人生の意義は、感動すること にある」
というものである。
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような、人生における真剣な問いについて、これは十分な解答になっていると思われる。
人類の価値: 真、善、美、聖などの基礎を、我々の素朴な「感動させるもの」におき、
また同時に生と死を、感動することと感動の止むことに置き換えれば、我々は死を安らかに受容できると思われる。
人類の永遠の課題 神、自由、不死
の解決のための確かな道筋を与えるばかりではなく、人間存在における三位一体の理
存在、知、愛
を 渾然一体のもの「感動」として捉らえたことになろう。
また、藤村 操は、「・・・ 人生は不可解である、 ・・・ 」
という遺言を残して自殺したが、彼を何かに真に感動させ、
「人生の意義は、感動することにある」として、彼を救うことができたかもしれない。何が「人間を感動させるのか」を問うて行けば、「人生如何に行くべきか」の基本的な方向を捉えることができるし、それは多くの人間が素朴に、あるいはぼんやりと抱いていたものと大きな相異はなく、この「人生における基本定理」は 多くの人間によって受け入れられるばかりではなく、新鮮な感動をもって人生の基本的な指針を与えてくれると思われる。
謝辞 (略)
追記 基本定理を自覚した後の心情は、
人生はそれ以上のものではないという寂しさ、さまざまな人生の肯定、
何か絶対的で永遠的なものを失ったような寂しさ、
感動できる人生を送ることは容易ではなく、逆に人生は苦悩に満ちている、
人生のことは、考えれば考えるほど、わけが分からなくなる、
等、であるが、それにもかかわらず、人生の方向と限界を知り、夢中で人生を送っているよりは はるかに賢明になったように感じている。(群馬大学工業会報より抜粋)
藤村操
巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。
以 上
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の注意を換気したい。― この文脈では稀なる日本人数学者 関孝和の業績が世界の数学に活かせなかったことは 誠に残念に思われる。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。山田体の導入。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童に歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直角座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象、接線などの新しい性質、解析幾何学との美しい関係と調和。すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること。行列式と破壊現象の美しい関係など。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し、広範な応用を展開する。特に微分係数が正や負の無限大の時、微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法で統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。
複素解析学においては 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円の鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考えの修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上に置ける大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響が期待される。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、人類の名誉にも関わることである。ゼロ除算の発見は 日本の世界に置ける顕著な貢献として世界史に記録されるだろう。研究と活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。
以 上
追記:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra & Matrix Theory, 6, 51-58.
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdfDOI:10.12732/ijam.v27i2.9.
再生核研究所声明295(2016.04.07) 無限の先にあるもの、永遠の先にあるもの ―盲点
セロ除算は新しい空間像をもたらしたので、いろいろな面から論じ、例えば、再生核研究所声明 271(2016.01.04): 永遠は、無限は確かに見えるが、不思議な現象 の中で、次のように述べた。
直線を どこまでも どこまでも行ったら、どうなるだろうか。立体射影の考えで、全直線は 球面上 北極、無限遠点を通る無限遠点を除く円にちょうど写るから、我々は、無限も、永遠も明確に見える、捉えることができると言える。 数学的な解説などは下記を参照:
再生核研究所声明264 (2015.12.23):永遠とは何か―永遠から
再生核研究所声明257(2015.11.05):無限大とは何か、無限遠点とは何か―新しい視点
再生核研究所声明232(2015.5.26):無限大とは何か、無限遠点とは何か―驚嘆すべきゼロ除算の結果
再生核研究所声明262(2015.12.09)::宇宙回帰説―ゼロ除算の拓いた世界観
とにかく、全直線が まるまる見える、立体射影の考えは、実に楽しく、面白いと言える。この考えは、美しい複素解析学を支える100年以上の伝統を持つ、私たちの空間に対する認識であった。これは永劫回帰の思想を裏付ける世界観を 楽しく表現していると考えて来た。
ところが、2014.2.2.に発見されたゼロ除算は、何とその無限遠点が、実は原点に一致しているという、事実を示している。それが、我々の数学であり、我々の世界を表現しているという。数学的にも、物理的にもいろいろ それらを保証する事実が明らかにされた。これは世界観を変える、世界史的な事件と考えられる:
地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
天動説→地動説
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
現在、まるで、宗教論争のような状態と言えるが、問題は、無限の彼方、無限遠点がどうして、突然、原点に戻っているかという、強力な不連続性の現象である。複数のEUの数学者に直接意見を伺ったところ、アリストテレスの世界観、世は連続であるに背馳して、そのような世界観、数学は受け入れられないと まるで、魔物でも見るかのように表情を歪めたものである。新しい数学は いろいろ証拠的な現象が沢山発見されたものの、まるで、マインドコントロールにでもかかったかのように 新しい数学を避けているように感じられる。数学的な内容は せいぜい高校生レベルの内容であるにも関わらず、考え方、予断、思い込み、発想の違いの為に、受けいれられない状況がある。
この声明では 盲点の視点から、強調したい存念を纏めたい。
直線をどこまでも どこまでも行ったら、どうなるだろうか? 関数 y = 1/xで 正方向からx がゼロに近づいたらどうなるであろうか? あるいは 同様に上記立体射影で 北極にどんどん近づいたら どうなるであろうか? どんどん進んだらどうなるであろうかという問題である。伝統的で自然な考えは 何に近づくかと発想して、近づいた先、具体的には、無限大や北極に(無限遠点)に行くと考えるのは当然ではないだろうか。この発想の基礎には連続性、あるいは極限値の考え方がある。近づいて行った先が、求める対象であると考えてきた。具体的な関数y = 1/x では 正方向からx がゼロに近づいたら,限りなく大きくなるので、無限大が 1/0 の自然な値であろうと考えてきた。ところがゼロ除算の数学は、突然ゼロであると言っている。驚嘆すべき現象、事件である。北極に近づいた先が北極(無限遠点)であるから,平面上のあらゆる方向の先は、北極(無限遠点)であろうと発想してきたが、実は突然、原点に飛んでいるということが明らかにされた。無限の先は、実はゼロであったという事実である。我々はどんどん近づく先を考えたが、真の先までは考えず、あくまでも近づく先を考えていたことになる。これは無限の先を見てきた時の,それこそ、盲点そのものであったと言えるのではないだろうか。無限の先は、連続性ではなく、実は強力な不連続性、飛びが生じていたという事実である。これは全く、思いがけない、現象である と言える。それは、盲点、あるいは落とし穴があったと表現できよう。
従って、無限の彼方に関する我々の世界観は 大きな変更を要求されることになるだろう。
以 上
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
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