2016年10月6日木曜日

【ノーベル賞】「この先、日本 人研究者は受賞できるのか?」 科学界に広がる悲観の背景

【ノーベル賞】「この先、日本 人研究者は受賞できるのか?」 科学界に広がる悲観の背景


「役に立つ科学」への疑問

今年、ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典さん(東工大栄誉教授)の発言が注目されている。基礎研究についての発言だ。
 「『役に立つ』ということが、とても社会をだめにしていると思っています。科学で役に立つって『数年後に起業できる』ことと同義語のように使われることが、とても問題だと思っています」
大隅さんは、基礎研究の重要さをわざわざ、ノーベル賞受賞の会見で口にした。インターネット上で、科学者や科学ジャーナリストたちから「科学立国だった時代の成果」「30年後の日本はノーベル賞を取れる国なのだろうか」と悲観的な発信が続く。
2000年代に入り、ノーベル賞受賞が続く、日本の科学界。それにもかかわらず、なぜ現状、そして将来に悲観的な声があがるのか。

予算は少なく、研究以外の負担は増えるばかり

「悲観的になる理由はわかります。大隅先生の研究にしても、去年の大村智先生の研究も最初の発見から時間が経ったものです。日本人研究者によるノーベル賞候補として注目されている研究も1970年代〜1990年代前半くらいまでに出揃ったものが大半です」
そう語るのは、ベテラン科学ジャーナリストの松浦晋也さんだ。松浦さんは、長年、宇宙を中心に科学の世界を取材してきた。
「その時と比べて科学者の世界は大きく変わりました。一つは研究費の問題。もう一つは大量の書類作りに追われ、研究に割ける自由な時間が減った学内環境です」

研究の「命綱」科研費の現状

研究費について、ノーベル賞ウィークが始まった今週初め日経新聞に大阪大・西尾章治郎学長の寄稿が掲載された。西尾学長は研究費についてこう言及する。
大学の経営を支える公的な仕組みは、基盤的経費(国立大学運営費交付金、私立大学等経常費補助金など)と、国が公募・審査を行う競争的資金との両輪(デュアルサポート)から成っている。
学術研究の振興を担う競争的資金は科学研究費助成事業(科研費)である。基盤的経費に依存する個人研究費が減少する一方、個々の研究者にとっては、もっぱら科研費が自らの力で獲得しえる「命綱」として極めて重い意味を持ってくる。
研究費を支える「命綱」とまで表現される科研費だが、2014年度予算の2276億円から今年度までほぼ横ばいとなっている。
文科省・研究振興局学術研究助成課の担当者はBuzzFeed Japanの取材に「大学の運営費交付金の予算は減っているため、応募者が増加している状況にある。競争率が上がり、相対的には採択率が下がる状況にあります」と話す。

科学で、何が役に立つのか。最初からわかる成果なんてない

松浦さんは「各大学の予算が減る中で、国や企業から研究費を取ってこないといけない。しかし、企業はビジネスとして成立しそうな分野に投資をするという考えですし、国の考えで未だに根強いのは『選択と集中』。つまり、役に立ちそうなものに、集中的に投資をするということです」
「問題は、何が役に立つのかなんて、科学の世界ではわからない、ということなんですよ。大隅さんの研究の代表的な成果であるオートファジーも、最初は好奇心から始まっています。誰もやっていないことをやろう、と。大事なのは、大隅さんのような動機で研究をはじめた人は同時代に何人もいただろうということなんです」
「仮説だけで終わった研究はいくつもあった。科学の世界は、好奇心を原動力に、いろんな人が自由に挑戦し、その中から『結果的』に、役に立つものが生まれてくるから面白いし、大事なんです」
「最初から役に立つ研究なんてわかりません。『選択と集中』でも悪くないと思いますが、最初の選択は手広くないといけない。狭めてしまっては、成果がでないということになります」面白いから研究をする、はダメなのか?
大隅さんが警鐘を鳴らす「成果」への考え方を松浦さんは支持する。
「ビジネスの発想でいえば、基礎研究は投資の対象になりません。すぐには成果がでないし、大半はダメかもしれない。でも、その中からいろいろな成果が生まれ、中にはノーベル賞につながる研究もあります」
「昔も研究予算は少なかったといいます。しかし、大学には時間と自由があったという話も聞きます。お金も絶対に大事ですが、考える時間と自由、やってみろと言える環境。これが大事ですよ」
松浦さん自身も、国立大や私大で講師を務めることがある。
「大学の環境は変わりましたね。先生方の研究時間ははたから見ても減っているし、何かにつけて書類づくり。研究費を取るにも書類が重要で、しかも何に役に立つかを説明しろと言われている。役に立つかどうかなんて、科学者が決めるのではなく、社会が決めることではないですかね」
面白いから研究をする。その結果として、社会にとって有用な研究が生まれてくる。役に立ちそうなものから研究をやりなさい、という姿勢で、果たして本当に有用な研究は生まれるのか。
「いろんな立場があっていいと思いますが、面白いからやる、という文化は残してほしい。研究費はもっと手広く分配して、最低でも数十年単位で構えるほうがいいでしょう。そうしないと、ノーベル賞につながる基礎研究はでません」
「この先、悲観的になるのは、基礎研究への理解がノーベル賞をこれだけとっても、変わらないからでしょう。とても理解できます」
いまの環境は、将来生まれるかも知れなかった成果を阻んでいるかもしれない。

オンリーワンは生まれるか

ノーベル賞候補と名が挙がった人たちの周辺を取材をしていると、しょっちゅう出会う言葉がある。それは「オンリーワン」だ。誰もやっていないことを最初にやる。こうした姿勢がとても強い。いまの大学で、オンリーワンは生まれるのか。
「出ない、とはいいません。しかし、オンリーワンが生まれにくい環境にはなっているのでしょう」
松浦さんは最後に、こんな話をしてくれた。
「天文学を考えてほしいんですよね。何百年も前に望遠鏡を作って覗いた人たちがいた。彼らは興味からやったけど、そこから緯度経度が生まれ、地図が作られ、現代物理学の重要な成果も生まれ、私たちは地図アプリを使って生活している。科学の歴史は、好奇心が動かしてきたんです。その中には、何にも役に立たなかった好奇心もある」
「それでも、なんの役にも立たなかった彼らがいなかったら、いまの成果なんてない。最初から、これは物理学の重要な発見につながるなんて、誰も思わない。でも、つながっていく。面白いですよね。こうした考えが理解されなかったら、成果もでませんよ」

文科省「歯がゆさ、もどかしい思いを抱えています」

科学者から続々と批判の声があがる、この状況。文科省はどう受け止めているのか。
「歯がゆさ、もどかしい思いを抱えていますね。予算も毎年、増額要求を出していますが、なかなか通りません」(前述の担当者)
予算自体の少なさも指摘されている。文科省によると、自然科学分野でノーベル賞がトップのアメリカは、科研費の10倍以上の予算を投じて研究環境の整備を続ける。
「諸外国と比べても日本は、科学関連の予算がかなり低いのは確かです。日本の論文数は世界の順位でも年々低下傾向にある。研究費が厳しい状況にあるためでしょう。大隅先生の寄稿文も読んでいますし、研究者の方のお話や、批判の声も把握しています。そのご指摘通りだと感じています」

現場から聞く将来への悲観

科学者を取材していると、こんな声を頻繁に聞く。
「日本人科学者がノーベル賞受賞。そんな見出しも、この先は減っていくよ」。このままでは、研究は成り立たなくなる。そんな思いが込められた声だ。https://www.buzzfeed.com/satoruishido/no-be-ru-shou-ko-no-senjitsu-bon-bito-kenkyuusha-ha-jushou-d?utm_term=.salrAXMr9#.ts8eZMLea
再生核研究所声明167(2014.6.21)大学などで アカデミックなポストを得る心得

(本声明は あるポスドクの方の パーマネントポストに就く心得を纏めて欲しい との要望によるものである。安定した職に就きたいは 一 若い研究者の切実な願望ではないだろうか)

上記の観点で、また、安定した収入を得る心得、方法を纏めて欲しいとの要望も寄せられているが、研究者などは 大学などに きちんとした職を得ることが、生活を安定させる基本である。 一応、常勤職につけば 生涯生活は保証されるとして、極めて重要な人生の観点である。
これは人事権を有する、関与する人々、多くは関係教授の判断に左右されるが、一般的な観点と意外な観点も有るので、経験してきた、人事を顧みながら、触れてみたい。
まず、 アカデミックポストには、多くは 採用したい希望が述べられた、公募要項が有るのが普通である。 最近の人事では、多数の応募が有るから、それらの基準に達していることは、相当に必要であり、それらの基準に達しない場合には、相当に厳しいのではないだろうか。少なくても公募を公正に行なえば、厳しいと言える。多くの機関では、基準として、博士号を有すること、出版論文数など いろいろな基準が内規で定められている場合が多い、その時は、それらに達していることが 書類選考の段階でも 必要条件になってしまう。逆にみれば、そのような基準を軽く越えているように、整えて置くのは、研究者の処世の第1歩といえる。
しかし、社会も 大学もそう公正にいくものでは無く、担当者によっては、仲間を優遇したり、特別なコネが 公募精神の公正さを越えて、担当者の都合で、自分の都合で人事を行うことは結構多い。これには、研究課題が細分化し、高度化し 特別な仲間でしか、通じず、通じる仲間をとらざるを得ない状況を反映させていると言える。もっと進めれば、実権ある教授が、共同研究できる人物を、自分に寄与できる人物を探すような実状さえ 多く有するだろう。これは、公のポストでさえ、公正の原則に反するとは言えない。教授は研究を推進する大きな義務を負う者、共同研究者を探すのは大事である という観点が有るからである。 しかしながら、これも行き過ぎると、組織が専門的に偏りの人事構成に成るなど、弊害が出て来る面もある。組織や研究機関の理念に反して、機関において異質の人事構成になることは 結構多い。- 職を探す者は、そのような特殊性が有る場合には、公募要項を越えて、応募する機会があると考えるべきである。さらに進めれば、私をとれば、組織は、あなたは、このような利益を得ることができると、具体的に暗示することは、書類の作成段階でも良いのではないだろうか。
そのような面では、研究課題で、採用する者が決まる、強い要素がある。採用する側の研究課題と採用される者の研究課題の相性の問題である。研究組織は、抜群の業績と才能を有する者でなければ、研究組織内で 研究交流できない研究者を採用することは、 組織の拡大、カリキュラムの大きな変更など 余程のことが無い限り、ないのではないだろうか。このような観点からも、研究課題を、あまりにも狭い範囲に限定しないで、研究課題でも対話が広い分野で成り立つように 広げて置くのは良いことではないだろうか?
人事は採用する側にとっても極めて重要であるから、採用に責任ある者は、採用する者の人物評価を真剣に行うだろう。採用する人物の周辺についてもいろいろ意見を求め、人物についての良い定評があれば 人事を進める場合に極めて有効で、書類選考などでも大いに効果が出るだろう。これは国際会議や、研究発表場面などで 研究内容と人物評価を何時もされていると心得るべきである。そのような場面で、採用責任者の好感が定着されていれば、人事に相当に有効であろう。単に書類や文献で知る人物と、面識が有って、人物と研究課題で評価されている人物とでは 大きな評価の差が出て来ると考えられるから、研究交流は 大事な機会と捉えるべきである。その時、配偶者も交えて、良い評価が得られれば、強い印象を与えると言う意味で、さらに良い効果を生むだろう。採用責任者は 人物の背後状況にさえ、大いに気を回すだろう。人事は、いわゆる書類に現れた評価を越えて、人物評価、全人格が大きな評価の基準になると考えられる。― ここで、優秀過ぎる人材は、自分の存在を脅かす観点から、敬遠される要素もあると言う、適当な謙虚さは必要かも知れない。
コネや人脈などは 大いに大事にすべきであり、研究仲間を広げ 大きな機会の場を作るように研究活動、日常生活で心がけるべきである。相当な人事は そのような人脈、研究仲間を通して行われるのは 公募、公募、公正、機会均等と言っても、そう簡単には行かないのが 現実ではないだろうか。また、博士課程における指導教授の影響は、永く相当に強いのではないだろうか。
 


『ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった』 ⇒ http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12089827553.html …… →ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・ 1+1=2が当たり前のように、

ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・・ 1+1=2が当たり前のように
何とゼロ除算は、可能になるだろうと April 12, 2011 に 公に 予想されていたことを 発見した。

多くの数学で できないが、できるようになってきた経緯から述べられたものである。


Dividing by Nothing
by Alberto Martinez
It is well known that you cannot divide a number by zero. Math teachers write, for example, 24 ÷ 0 = undefined.

After all, other operations that seemed impossible for centuries, such as subtracting a greater number from a lesser, or taking roots of negative numbers, are now common. In mathematics, sometimes the impossible becomes possible, often with good reason.


明治5年(1872)

地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
地球人はどうして、ゼロ除算1300年以上もできなかったのか?  2015.7.24.9:10 意外に地球人は知能が低いのでは? 仲間争いや、公害で自滅するかも。 生態系では、人類が がん細胞であった とならないとも 限らないのでは?

ビッグバン宇宙論と定常宇宙論について、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1243254887 #知恵袋_


ゼロ除算の証明・図|ysaitoh|note(ノート) https://note.mu/ysaitoh/n/n2e5fef564997

Q)ピラミッドの高さを無限に高くしたら体積はどうなるでしょうか??? A)答えは何と0です。 ゼロ除算の結果です。

ゼロ除算は1+1より優しいです。 何でも0で割れば、0ですから、簡単で美しいです。 1+1=2は 変なのが出てくるので難しいですね。

∞÷0はいくつですか・・・・・・・

∞とはなんですか・・・・・・・・

分からないものは考えられません・・・・・

宇宙消滅説:宇宙が、どんどんドン 拡大を続けると やがて 突然初めの段階 すなわち 0に戻るのではないだろうか。 ゼロ除算は、そのような事を言っているように思われる。 2015年12月3日 10:38
Reality of the Division by Zero $z/0=0$


再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
                                            
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア

お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 722011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。

以 上

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