2016年5月6日金曜日

SMAP解散説否定…ジャニー社長「絶対ないです」 日刊スポーツ 日刊スポーツ新聞社

SMAP解散説否定…ジャニー社長「絶対ないです」

日刊スポーツ
日刊スポーツ新聞社
 今年1月に解散危機があった国民的アイドルグループSMAPについて、ジャニー喜多川ジャニーズ事務所社長(84)がこのほど、解散をきっぱりと否定した。今年1月の騒動後、SMAPの去就について事務所幹部が言及したのは初めて。さらに、騒動当時は自身が入院していたことも明らかにし、デビュー25周年記念のコンサートなども、積極的に行うべきだと主張した。一部でメンバー間のすれ違いも指摘される点については、長年の絆の強さを強調。社長自らの発言によって、解散騒動にもピリオドが打たれそうだ。

 SMAPについて切り出したのは、取材陣ではなくジャニー氏からだった。このほど行われた、ジャニーズJr平野紫耀(ひらの・しょう=19)の取材会に同席。やりとりが一段落した後だった。

 「この場所は、別の取材の機会だけど、記者さんが絶対聞きたいと思うのは、『SMAPはどうなるの?』ってことだと思う」

 同席した関係者らがざわつく中で、さらに続けた。

 「僕は、命にかけても…。SMAPは、わが子と同じですから。彼らは僕に相談なしで、とかくするはず、絶対ないです。心配は、全然ないです。解散なんて冗談じゃない」

 力強く、こう、言い切った。

 騒動の発端は昨年1月、ジャニーズ事務所の藤島メリー泰子副社長が「週刊文春」の取材を受け、SMAPを長年担当した女性マネジメント室長を「おやめなさい」などと叱責(しっせき)したことだった。その後女性マネジメント室長がSMAPを引き連れての独立を計画し、昨年末までに中居正広、稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の4人は独立を、木村拓哉は事務所残留を決意。今年1月13日に、日刊スポーツなどの報道で表面化した。

 報道時を振り返り、ジャニー氏は「入院していた。大きな病気とかではなく、もう84ですし、年からくるもの」と明かした。その後、SMAPのメンバーと会って、話す機会があったという。「1回くらい会いました。『頑張れよ』『頑張ろうよ』っていう話はしました」。同18日にはフジテレビ系「SMAP×SMAP」でメンバーたちが生放送でコメントした際、草なぎが「木村くんが、ジャニーさんに謝る機会を作ってくれて」などと明かしていた。

 一部ではメンバー間のすれ違いや、木村と中居の深い溝を指摘する声もある。修復不可能との見方もあるが、ジャニー氏は解散、分裂を否定した。その根拠として、「小学校のころからやっていて、向こうも(ジャニー氏を)親と同じように思っている」と、絆の強さを強調した。「彼らが僕を信じている以上に、僕も彼らを全面的に信じていますから。ピンからキリまで、うそをついていたって、何をしたって、すぐ分かっているんですよ。何かあれば、こっちに来ますよ。もともと、そんな(解散の)気持ちは毛頭ないですよ。みんな含めて」と断言した。

 事務所との契約更新時期は今年9月。一部では更新がないのではとする指摘もあるが、「(更新しないことは)ないですね。あり得ない」ときっぱり。一方で、デビュー25周年を迎えることを受けて「(コンサートなどを)盛大にやるべきだと思う。萎縮したり、周りに遠慮したりする必要はない。彼らは『俺たちはいいよ』って言うかもしれないけど」とほほえんだ。

 騒動から約100日が経過し、初めて口を開いた「父親」の言葉は、自信に満ちていた。

<SMAP解散騒動の経過>

 ▼15年1月 藤島メリー泰子副社長が「週刊文春」で、SMAP担当の女性マネジメント室長に「事務所をおやめなさい」と叱責(しっせき)。

 ▼同年夏 女性マネジメント室長がSMAPを引き連れた独立を計画。

 ▼同11月 中居正広、稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾が独立を決断、木村拓哉は12月に事務所残留を決意。

 ▼16年1月12日 女性マネジメント室長が、事務所関連会社の取締役を辞任。

 ▼同13日 日刊スポーツなどの報道で、グループ解散とメンバーの独立が表面化。事務所が協議中であることを認めた。

 ▼同14日 草なぎ剛がドラマPRでテレビ朝日系情報番組に出演も騒動に触れず。中居正広がダウンタウン松本人志と極秘接触。

 ▼同15日 騒動発覚後に収録のTOKYO FM「木村拓哉のWhat’s UP SMAP!」放送。「いつか自分の言葉で話せる時がきたら、お話しさせていただきたい」。

 ▼同17日 木村が主演映画の撮影を京都で終え、現場で藤島ジュリー景子副社長と接触。

ジャニー社長がSMAP解散説に言及した© 日刊スポーツ新聞社 ジャニー社長がSMAP解散説に言及した
 ▼同18日 フジテレビ系「SMAP×SMAP」の一部内容を変更してメンバー5人が生出演し、騒動についてコメント。グループ存続を表明。

 ▼同21日 都内のフジテレビスタジオで「SMAP×SMAP」収録。SMAPを励まそうと、近藤真彦の発案で食事会が開催され、東山紀之や嵐まで、SMAPと年齢的に近いタレントが集結。

※なぎは弓ヘンに前の旧字の下に刀http://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/%EF%BD%93%EF%BD%8D%EF%BD%81%EF%BD%90%E8%A7%A3%E6%95%A3%E8%AA%AC%E5%90%A6%E5%AE%9A%E2%80%A6%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%A4%BE%E9%95%B7%E3%80%8C%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%8D/ar-BBsEwI7?ocid=UP97DHP#page=2

再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。

以 上

再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ 

人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上







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