2014年11月9日日曜日

生と死

ウィクショナリーに生の項目があります。
生(せい、しょう、いのち)
生命。即ち、生きる事や生きている状態、存在する状態。対義語の死と対比する時によく用いられる。
生命の発生。例:誕生、生年月日など。
生命の活動。例:生態、生育、生活など。
生きている人間。例:先生、小生、生徒。
ものを作り出すこと。例:生産、生成。
仏教で四苦の一つ。自分が生きるためには他の生物の死が必要である。因果応報。輪廻。
生存
部首の1つ、生部。
男子の遜った自称。
生(なま)
加熱していない食物の状態。例:生卵、生野菜
以下は概ねこれから転じたもの。
加熱殺菌せず濾過によって作られたビール(生ビール)。
十分洗練されていない状態。未熟なこと。例:生兵法、生半可。
演劇、音楽演奏、実演する芸能に於いて録画録音でないの意。即時(liveの訳)。例:生放送、生中継。
成分に生クリームが使われているもの(生チョコレート)。
性風俗業界で、コンドームを装着しない事を指す隠語。「N」と略される事がある。
生(うぶ)
初初しい。性の知識にうとい。純情。
産の字の代用。生まれた時の。
生(き)
元になるもの。手を加えられていないもの。例:生地。
死(し、英語: death)とは、
命がなくなること[1]。生命がなくなること[2]。生命が存在しない状態[2]。
機能を果たさないこと、役に立たないこと[1](→#比喩的な用法を参照)
ただし、何をもって人間の死とするのか、その判定や定義は文化、時代、分野などにより様々である。(→「死亡の判定・定義」節を参照)。一旦は命が無いとされる状態になったが、再び生きている状態に戻った場合、途中の「死」とされた状態を「仮死」や「仮死状態」という。伝統的に宗教、哲学、神学が死を扱ってきた。近年では、死生学、法学、法医学、生物学等々も死に関係している。死の後ろに様々な言葉をつなげ、様々なニュアンスを表現している。例えば「死亡」「死去」「死没」などがある。
目次 [非表示]
1 人間の死
1.1 死亡の判定・定義
1.1.1 早すぎた埋葬
1.2 死因の種類と統計
2 臨死体験
3 宗教等における死の理解、死後の世界、言葉
3.1 古代エジプト
3.2 キリスト教
3.3 古代インド
3.4 日本の神道と仏教
3.4.1 その他の日本における死の表現
3.5 チベット
3.6 現世的な身分の上下を重視した人々
3.7 関連項目
4 死の受容
4.1 哲学と死の受容
4.2 死の人称による分類
4.3 死の受容についての研究
4.4 医療の場におけるスピリチュアルケア
4.5 文化・宗教による相違
4.5.1 関連項目
5 死についての名言
6 文学・芸術に描かれた死
7 死にまつわる様々なイメージ
7.1 色
7.2 数字
7.3 タロット
7.4 再生、安らぎのイメージ
8 生物学的な死の説明
8.1 単細胞生物等の死
8.2 多細胞生物の死
8.3 死の過程
8.3.1 細胞死
8.3.2 死体現象
8.4 関連項目
9 月別の死亡数
10 比喩的な用法
10.1 芸術作品の死
11 脚注
11.1 注釈
11.2 出典
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
人間の死[編集]
死亡の判定・定義[編集]
どのような状態になったことを「死」とするのかということについては、各地域の文化的伝統、ひとりひとりの心情、医療、法制度、倫理的観点などが相互に対立したり影響しあったりしており、複雑な様相を呈している。領域ごとに異なった見解があり、またひとつの領域でも様々な見解が対立している。たとえば今 仮に、医学的な見解ひとつに着目してみた場合でも、そこには様々な見解がありうる。養老孟司は次のように指摘した。
生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない。[3][4]
ここではまず、多くの人々がとってきた見解を中心に、様々な見解を説明してゆく。
息が止まること
伝統的に命は息と強く結びつけられて考えられてきた。よって、息が無くなった状態は死だと考えられてきた。
全身のさまざまなしるし
日本人では、従来(そして現在でも一部では)、爪や髪が伸びる間は、まだ(ある意味で)命はまだあるのだ、と感じている人がいる。現在でも、自分の親や子供などを亡くした遺族などの中には、家族(の身体・遺体)の髪や爪が伸びているのを見て、まだ生きていると感じ、荼毘に付すのを拒む人がいる。
臨終の場における医師の恣意的な判断
前述のように実際には医師にとっても生と死の境目ははっきりしているわけではない。ただ、言葉として「生死」という言葉があり用いられている以上、「間に切れ目がある」という前提が置かれてしまっており、また社会の制度としては、どういう形にせよ、切れ目を決めることを求められることになり、実体とは関係なく、法律というものは言葉で組み立てられているので、死を(法的に、形式主義的に)規定することが可能で、死亡診断書の「死亡時刻」欄に何らかの時刻を書くことで「この時点から死だ」といすることに決められている[3]。よって(本当は境目ははっきりしていないのだが)医師は死亡診断書の「死亡時刻」欄を空欄にしておくことは許されず、(ともかくそれに書き込み)それによって「死の瞬間」が(形式的に)決定される。しかし、これは言葉の上で(恣意的に)決めたにすぎず、実体としての「死の瞬間」とは別のものである[3]。
三兆候
医療で用いられる「死の三兆候」で、次の三つ。
自発呼吸の停止
心拍の停止
瞳孔が開く
数十年前に臓器移植の問題が出現するまで、こう考えておけば基本的には問題はなかった[3][5]。
バイタルサイン
現代の医療の現場では、基本的にまずバイタルサインを見て生命の状態を判断している。つまり心拍数・呼吸数・血圧・体温である。そしてバイタルサインによる生命のしるしが無くなった段階で、瞳孔反射を調べ、それも無い場合に死亡したと判断する、というのがひとつの(よくある)方法である。[注 1]
臓器移植と線引き
死は実は定義困難なのだが、医療の現場では前述の「死の三兆候」を用いることで、ともかくそういう細かいことを考えずに済んでいた。ところが、臓器移植という問題が出てきた段階で考え込まざるを得なくなった[3][6]。
米国などで医師の一部によってさかんに臓器移植の試みがなされるようになると、こうした医師はできるだけ新鮮な臓器を使いたいと考え、少しでも早く臓器を摘出したいと考えるようになった。そのほうが移植された人の予後は良好になる傾向があるからである。だが、新鮮な臓器のほうが予後が良好だからと言って、早めに臓器を取り去った後に、その人は手術時に「生きていた」とされ、臓器を取ったことによって「死んだ」状態になったと判断されると、その一連の行為は(一種の)「殺人」ということになってしまう。そこで、臓器移植をさかんに行おうとする医師たちなどが、意識の有無を生死の線引きに用いることを提唱し、「脳死」という概念を用いることを主張した。それによって、人工心肺などを用いることで、脳が死んだ状態でも、残りの臓器はかわらず生かしておき、その新鮮な状態の臓器を移植することができる、と考えるようになったのである。彼らは「脳の電気的活性の停止が意識の終わりを示す」と考え、「脳の電気的活性が止んだとき、人間は死んだのだ」と言うようになった。[注 2]。
「脳死」という考え方は、様々な激しい議論を生み、かなりの論争にもなった、現在では一時ほどは激しくはないが、今も様々な議論は続いている。
現代では「脳死が死だ」というふうに捉える人もいるであろう[3][7]。だがこの「脳死」概念ですら線引きは様々で、(脳のどこが死んだ段階を「脳死」とするか意見は分かれ)、「脳の神経細胞が全部死んだ時点が脳死」とする人もいる[3][8]。しかし、仮にこの論法を取る場合でも、一体どの時点で神経細胞が全部死んだのか、実はわからない[3][9]。[注 3][注 4][注 5][注 6][注 7][注 8]
脳死の議論は、一見したところではまるで科学の話のようでも、本当は問題となっているのは、社会が一致して決める「死」が問題の中心になっているようだと養老は指摘した[3][10]。臓器移植を巡る「脳死」概念では、臓器移植をしようとする医師、臓器をとられる人とその家族、臓器を受け取る人の立場 等々は対立していてかみあわない。
そもそも、人体というのは様々な種類の細胞で出来ていてそれらが全体で生きているのに、そうした数多くの細胞の中から脳の神経細胞だけを特別視するほどの明確な根拠があるわけではない[3][11]と養老孟司は指摘した。
脳の神経細胞だけを特別視するということは、皮膚や筋肉の細胞を差別(軽視)している、ということになる[3][12]。おまけに筋肉というのは、「脳死」の判定後でも電気刺激を与えるとよく動く[3][13]。筋肉は生きつづけているのである。こういうことからも、"「生死の境目」や「死の瞬間」は厳格に存在している"とする考えは、思い込みにすぎないことがわかる、と養老は書いた[3][14]。
「臓器移植法」を見ても、そういうことはよく現れている[3][15]。同法には "脳死は死である" などとは書かれていない[3][16]。単に、脳死状態の患者からは臓器を移植してもよい、としか書いていない[3][17]。つまり、生死の線引きをはっきりさせようとこだわると困る人がいるからそれを言わないようにしているわけで、「脳死者から臓器移植していい」というのは「どうせなら鮮度がいい臓器がいい」という(外科医や、臓器を受け取る側の)事情・都合で決めたに過ぎない[3][18]。
また村上陽一郎も、医学が人間をパーツの集まりとしか見なくなったから「脳死」などという概念を作りだしたのであって、苦しむひとりひとりの人間としての患者への視点がすっかり欠如してしまっているからそうなってしまっている、と指摘し、「脳死」という概念はかなり不適切だ、と指摘している[19]。
「脳死」も参照
臓器移植と脳死を巡って議論が活発だった時に、死(脳死)を「これから先は死に向かって、不可逆的に進行する過程になる状態である」と書いた人がいた[3][20]。法医学の教員でも、「人の死は、心臓・肺・脳、それら全ての不可逆的な機能停止」という人がいる。「生命活動が不可逆的に止まる事」などとも[21][注 9]。[注 10]
法律上、何をもって人の死とするかという問題については「人の終期」も参照
立場によって見解は異なり、現在でも「死」の判定や定義については、それぞれの立場で、様々な見解が示され続けている。
早すぎた埋葬[編集]
医師に死亡を宣告された後、生き返った人々の逸話が多くある[22]。
イギリスのビクトリア時代のそのような逸話では、あるものは防腐処理を始めた時に、あるものは死の数日後に棺の中で意識を回復するなどして動き回ったりする。当時のイギリスでは、このような早すぎた埋葬を、強迫観念的に恐れるようになる人がいた。同時代以前には、ペストなどの伝染病流行時に、感染を恐れて検死がずさんだったりするケースもしばしばあったとされ、これが死者復活(→吸血鬼やゾンビ・グールなど)の伝承となったと考える者もいる。
これらは、その当時の検死技術が完全ではなく、ショック状態における体温の急激な低下や、呼吸量の著しい減少、あるいは血圧低下による脈の微弱な状態を死亡と誤って判定したケースや、一時的な心肺停止後に偶発的に心臓の鼓動が正常に戻るなどして「生き返った」とみなされたのだろう。このため近代的な検死では、最初のチェックから一定時間後に生命の兆候がないかを再チェックするようになっている。
検死技術の発達以前における土葬では、このように生きているにもかかわらず埋葬され、生き埋めとなる可能性は誰にでもあり、またそれらの可能性は大変な恐怖を伴った。そのため発明家たちは被埋葬者の状態を棺外に伝える方法を発明した。地表にはベルと旗があり、それが棺内にひもでつながっていた。棺の蓋には金槌や滑車装置で壊せるガラスの仕切りがあった。しかしこれは気休めでしかなく、この滑車装置が棺にかけられた土のため機能し得ず、棺を破壊したところで割れたガラスと土が被埋葬者の顔を覆う事になる。(安全な棺も参照)
死因の種類と統計[編集]
人間が死に至る原因を「死因」と言う。
直接的に死亡に繋がった原因の事を「直接死因(direct cause of death)」と言い、直接死因を招いた原因を「原死因(underlying cause of death)」と言う。[要出典]
(一般的な死因の分類と必ずしも一致するわけではないが参考までに)死亡診断書での「死因」の分類では次のようになっている[23] 。
「病死および自然死」[23][24]
「不慮の外因死」(Accident)[23]
「交通事故」、「転倒・転落」、「溺死」、「煙、火災および火焔による障害(火災による死)」、「窒息」、「中毒」[23]
「その他の外因死、不詳の外因死」[23]
「自殺」「他殺」[23]「その他の外因死、不詳の外因(戦争による死、刑による死[23])[25]
子宮内の胎児が死亡した状態で産まれる事を、死胎検案書では「自然死産」や「人工死産」と分類する[26]厳密には胎児そのものの死因を表すものではないが、胎児が死亡した際に用いられる。
統計
なお病死に関しては、近年の日本ではガン・心疾患・肺炎が3大要因となっている[27]
なお、(医師側の一次的な報告では一見したところ分かりづらく分類されてなかなか表に出ないのであるが)近年の米国では、米国の死亡者の死因を詳細に調査した研究者によって、実は死因の第2位が医原病であること、つまり医療が死因の第2位であることが判ってきている。

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。
経過などは 次を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAM
以 上

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