2015年2月1日日曜日

再生核研究所声明202(2015.2.2)ゼロ除算100/0=0,0/0=0誕生1周年記念声明 ― ゼロ除算の現状と期待

再生核研究所声明202(2015.2.2)ゼロ除算100/0=0,0/0=0誕生1周年記念声明 ― ゼロ除算の現状と期待
ゼロ除算の発見、経過、解説などについては、結構な文献に記録されてきた:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8) 知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
再生核研究所声明176(2014.8.9)ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
Announcement 179 (2014.8.25) Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
Announcement 185: The importance of the division by zero $z/0=0$
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
再生核研究所声明190(2014.12.24)
再生核研究所からの贈り物 ― ゼロ除算100/0=0, 0/0=0
夜明け、新世界、再生核研究所 年頭声明
― 再生核研究所声明193(2015.1.1 ― 
再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について
再生核研究所声明199(2015.1.15)世界の数学界のおかしな間違い、世界の初等教育から学術書まで間違っていると言える ― ゼロ除算100/0=0,0/0=0
ゼロ除算100/0=0,0/0=0誕生1周年記念日に当たり、概観して共同研究者と共に夢を明るく 楽しく描きたい。まずは、ゼロ除算の意義を復習しておこう:
1)西暦628年インドでゼロが記録されて以来 ゼロで割るの問題 に 簡明で、決定的な解 ゼロで   何でも割れば ゼロ  z/0=0  である をもたらしたこと。
2)ゼロ除算の導入で、四則演算 加減乗除において ゼロでは 割れない の例外から、例外なく四則演算が可能である という 美しい四則演算の構造が確立されたこと。
3)2千年以上前に ユークリッドによって確立した、平面の概念に対して、おおよそ200年前に 非ユークリッド幾何学が出現し、特に楕円型非ユークリッド幾何学ではユークリッド平面に対して、無限遠点の概念がうまれ、特に立体射影で、原点上に球をおけば、 原点ゼロが 南極に、無限遠点が 北極に対応する点として 複素解析学では 100年以上も定説とされてきた。それが、無限遠点は 数では、無限ではなくて、実はゼロが対応するという驚嘆すべき世界観をもたらした。
4)ゼロ除算は ニュートンの万有引力の法則における、2点間の距離がゼロの場合における新しい解釈、独楽(コマ)の中心における角速度の不連続性の解釈、衝突などの不連続性を説明する数学になっている。ゼロ除算は アインシュタインの理論でも重要な問題になっていたとされている。数多く存在する物理法則を記述する方程式にゼロ除算が現れているが、それらに新解釈を与える道が拓かれた。
5)複素解析学では、1次変換の美しい性質が、ゼロ除算の導入によって、任意の1次変換は 全複素平面を全複素平面に1対1 onto に写すという美しい性質に変わるが、 極である1点において不連続性が現れ、ゼロ除算は、無限を 数から排除する数学になっている。
6)ゼロ除算は、不可能であるという立場であったから、ゼロで割る事を 本質的に考えてこなかったので、ゼロ除算で、分母がゼロである場合も考えるという、未知の新世界、新数学、研究課題が出現した。
7)複素解析学への影響は 未知の分野で、専門家の分野になるが、解析関数の孤立特異点での性質について新しいことが導かれる。典型的な結果は、どんな解析関数の孤立特異点でも、解析関数は 孤立特異点で、有限な確定値をとる という定理 である。佐藤の超関数の理論などへの応用がある。
8)特異積分におけるアダマールの有限部分や、コーシーの主値積分は、弾性体やクラック、破壊理論など広い世界で、自然現象を記述するのに用いられている。面白いのは 積分が、もともと有限部分と発散部分に分けられ、 極限は 無限たす、有限量の形になっていて、積分は 実は、普通の積分ではなく、そこに現れる有限量を便宜的に表わしている。ところが、その有限量が実は、 ゼロ除算にいう、 解析関数の孤立特異点での 確定値に成っていること。いわゆる、主値に対する解釈を与えている。これはゼロ除算の結果が、広く、自然現象を記述していることを示している。
9)中学生や高校生にも十分理解できる基本的な結果をもたらした:
基本的な関数y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである;すなわち、 1/0=0 である。
10)既に述べてきたように 道脇方式は ゼロ除算の結果100/0=0, 0/0=0および分数の定義、割り算の定義に、小学生でも理解できる新しい概念を与えている。多くの教科書、学術書を変更させる大きな影響を与える。
11)ゼロ除算が可能であるか否かの議論について:
現在 インターネット上の情報でも 世間でも、ゼロ除算は 不可能であるとの情報が多い。それは、割り算は 掛け算の逆であるという、前提に議論しているからである。それは、そのような立場では、勿論 正しいことである。しかしながら、出来ないという議論では、できないから、更には考えられず、その議論は、不可能のゆえに 終わりになってしまう ― もはや 展開の道は閉ざされている。しかるに、ゼロ除算が 可能であるとの考え方は、それでは、どのような理論が 展開できるのかという未知の分野が望めて、大いに期待できる世界が拓かれる。
12)ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える。
次を参照:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として表していることである。
ゼロ除算は 既に数学的に確定され、その意義も既に明らかであると考えられるが、声明199にも述べられているように、ゼロ除算が不可能であるとの世の常識、学術書、数学は 数学者の勝手な解釈による歴史的な間違いに当たる ことをしっかりと理解させ、世の教育書、学術書の変更を求めていきたい。― 誰が、真実を知って、偽りを教え、言い続けられるだろうか。― 教育に於ける除算、乗算の演算の意味を 道脇方式で回復させ、新しい結果 ゼロ除算を世に知らしめ、世の常識とさせたい。それは ちょうど天動説が地動説に変わったように 世界史の確かな進化と言えるだろう。
ゼロ除算の研究の進展は、数学的には 佐藤超関数の理論からの展開、発展、 物理学的には ゼロ除算の物理法則の解釈や、衝突現象における山根の面白い解釈の究明 などに興味が持たれる。しかしながら、ゼロ除算の本質的な解明とは、Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の自然な現象として受け入れられることである。数学では、その強力な不連続性を自然なものとして説明され、解明されることが求められる。
以 上

確実なのは生きている時間には終わりがある。 迷っていても時間は経つ。 時間以外は決まってはいない。

確実なのは生きている時間には終わりがある。

迷っていても時間は経つ。

時間以外は決まってはいない。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10141341310

その通りですが、終りを人間は 認識できない。 

人生とは、はじめも

終わりも分からず、 現世さえ、分からない。 

結局 ふらふら目が回っているのが・・・


再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)

これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:

ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、

関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば

F = G mM/r^2。

rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:

No.81, May 2012(pdf 432kb)

19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。

における 2元の奇妙な関係である。

他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。

生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―

ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。

そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。

食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。

以 上

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,

New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/

記事 Hayato Ikeda2015年01月30日 05:00これからの移住対策は「人の奪い合い」ではなく「関係人口をどれだけ作れるか」

記事
Hayato Ikeda2015年01月30日 05:00これからの移住対策は「人の奪い合い」ではなく「関係人口をどれだけ作れるか」

[FUTURE LEAGUEに掲載した記事を転載します。]
こんにちは、イケダハヤトです。高知県で活躍するNPO「土佐山アカデミー」の創設者・林篤志さんがいいことを言っていたのでご紹介。

これからの移住対策は「人の奪い合い」ではなく「関係人口をどれだけ作れるか」
今ってどの自治体も移住促進に取り組んでいるんですよ。でも、これって基本的に「奪い合い」じゃないですか。人口が減っていくなかで奪い合いをしても、あんまり未来がない感じがしているんです。
そんな疑問を持っていたなかで、とある打ち合わせのなかで林さんが「これからは移住人口だけではなく、関係人口をどれだけ作れるかが大切になる」というお話をしてくださいました。

なるほど確かに、林さんは高知県で「土佐山アカデミー」というすばらしいNPOを立ち上げた方ですが、今は高知県に月の3分の1、残りは東京や他の地方で働いているそうです。「高知県の住民」としてみると、「フルタイム」ではないんですね。行ってみれば「パートタイマー高知県人」ですね。
しかしながら、林さんは高知県に圧倒的な価値を生み出しているんです。たとえば、今まさに林さんが仕掛けている「EDGECAMP」。土佐山という「ど田舎」に、全国から変な起業家が集まって、地域に根ざした事業作りをしています。クリエイティブな人材がオフィスにいなくても成果を出せるように、高知にフルタイムで住んでいなくても、十分な成果を出せるということです。

昨今は「二拠点居住」が話題になっていますが、たとえば「月の半分は高知県に住んで、残りは京都に住む」というのもありえるわけです。実際、先日とあるイベントでそういう暮らしをしている起業家の方とお会いしました。
家族の関係で高知に住むことになり、京都でお店を経営する傍ら、高知でも何かコミュニティを作ろうと画策しているそうで。とりあえず面倒なので住民票は京都に残しておく予定だそうですが、確実に高知県にいい影響を与えてくれる住民です。
今のところ「二拠点居住」は自治体的には「移住」のメインターゲットではないかもしれませんが、人材のパフォーマンスを考えると、むしろ変に「定住してもらう」より、「通ってもらう」方がいいんじゃないかと思い始めています。
上で紹介した起業家の方でいえば、彼は「京都と高知をつなぐハブ的人材」としても活躍してくれるわけですから。京都のノウハウ、ネットワークを無料で高知に持ち込んでくれるとか、地域にとってはすごくお得な話ですよね。

これは企業誘致においても同じ話で、フルタイムのオフィスを地方に構えるのは、正直現実的ではありません。が、パートタイムの利用、たとえば「開発合宿のときだけ、地方拠点で仕事をする」とか「プロジェクトが終了したスタッフが、英気を養うために地方拠点で仕事をする」などなど、都市と地方を往復することを前提とした利用法なら、高知のど田舎のシェアオフィスでも活用の可能性があります。

ぼくが見る限りにおいては、ほとんどの自治体は「定住」をゴールに据えて移住促進をしています。今はまだそれでもいいかもしれませんが、限られた人口を奪い合うことになるのは目に見えているわけで、同時並行で「地域に関係してくれる人を増やす」ことも、移住促進の一環として実施していくべきだと考えている今日この頃です。
[FUTURE LEAGUEより] http://blogos.com/article/104537/
これはいろいろ考えられ、基本的には、個人の有り様で、個人的に有り様を考えるべきでは?

宇宙誕生直後の膨張の痕跡 観測裏付けられず

宇宙誕生直後の膨張の痕跡 観測裏付けられず
1月31日 17時32分
去年3月に発表され、宇宙が誕生直後に急激に膨張したという理論を裏付ける痕跡を観測したとして世界的な注目を集めた研究結果について、この研究を行ったアメリカの研究チームなどは改めて検証したところ、「観測を裏付けられなかった」として、事実上誤っていたと発表しました。
アメリカのハーバード大学などの研究チームは去年3月、南極に設置された望遠鏡で観測したデータを解析した結果、「重力波」と呼ばれる時間や空間の揺れが波のように伝わる現象の痕跡を、世界で初めて観測したと発表しました。
この研究結果は、およそ138億年前、宇宙が誕生直後に急激に膨張したという「インフレーション理論」を裏付けるものとして世界的な注目を集めましたが、その後一部の専門家から疑問視する声が上がっていました。
研究チームはESA=ヨーロッパ宇宙機関とともに新たに得られたデータを解析するなどして改めて検証してきましたが、その結果、「重力波の痕跡の観測を裏付けられなかった」として、研究結果は事実上誤っていたと発表しました。
重力波の痕跡を観測するには銀河に広がる「ちり」の影響を考慮する必要がありますが、「ちり」の影響をより精密に解析した結果、当初観測した波形が重力波の痕跡だとは言い切れなくなったと説明しています。
今回の結果は「インフレーション理論」を否定するものではなく、研究チームは「今後も重力波の探索は続く」とコメントしています。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150131/k10015113381000.html

再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
100割る0 の意味を質問されたが(なぜ 100÷0は100ではないのか? なぜ 100÷1は100なのか… 0とは何...aitaitokidakenimoさん)、これは、定義によれば、その解、答えが有るとして、a と仮に置けば、 100=a x0 = 0 で矛盾、すなわち、解は、答えは存在しないとなる。
方程式 a x0= b は b=0 でなければ 解は無く、答えが求まらない。(特に、bが0ならば、解 a は 何でも良いと言うことに成る。)
解が、存在しなかったり、沢山の解が有ったりすると言う、状況である。
そこで、何時でも解が存在するように、しかも唯一つに定まるように、さらに 従来成り立っていた結果が そのまま成り立つように(形式不変の原理)、割り算の考えを拡張できないかと考えるのは、数学では よくやることである。数学の世界を 美しくしたいからである。
実際、文献の論文で 任意関数で割る概念を導入している。
現在の状況では、b 割るa の意味を ax – b の2乗を最小にする x で、しかも x の2乗を最小にする数 x で定義する。後半の部分が無いと、a が0の場合 x が定まらない。後半が有ると0として、唯一つに定まる。この意味で割り算の意味を考えれば、100割る0は 0 であるとなる。 
上記で もちろん、2乗を最小にする の最小値が0である場合が、 普通の割り算の解、
b 割るa を与える。
もちろん、我々の意味で、0割る0は 曖昧なく、解は唯一つに定まって、0となる。
f 割る g を ロシアの著名な数学者 チコノフの考えた正則化法 と 再生核の理論 を併用すると 一般的な割り算を 任意関数g で定義できて、上記の場合は、100割る0は 0 という解に成る。
すなわち、解が存在しなかった場合に、割り算の意味を 自然に拡張すると 唯一つに解は存在して それは0であると言う、結果である。
上記で、ax – b の2乗を最小にする x で、と考えるのは、近似の考え方から、極めて自然と考えられるが、さらに、x の2乗を最小にする数 x とは、神は、最も簡単なものを選択する、これはエネルギー最小のもの、できれば横着したい という 世に普遍的に存在する 神の意志 が現れていると考えられる(光は、最短時間で到達するような経路で進むという ― フェルマーの原理)、神が2を愛している、好きだ とは 繰り返し述べてきた(神は 2を愛し給う)(http://www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)。
これで、0で割るときの心配が無くなった。この考えの 実のある展開と応用は多い。
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
以 上
文献:
Castro, L.P.; Saitoh, S. Fractional functions and their representations. Complex Anal. Oper. Theory 7, No. 4, 1049-1063 (2013).


再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
(5月28日、宿舎から研究室に向っているとき、芝生の先に 木立ちが有り、その先に 入り江が見える情景を見て、エデンの花園のように感じた. そして、この声明の原案とエデンの花園の声明構想が閃いた。)
ゼロで割るを グーグルで調べると、2014.5.28.13:35現在
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1. ゼロ除算 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ゼロ除算
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ゼロ除算(ゼロじょざん、division by zero)は、0 で除す割り算のことである。このような除算は除される数を a とするならば、形式上は a⁄0 と書くことができるが、数学において、この式と何らかの意味のある値とが結び付けられるかどうかは、数学的な設定に ...
‎算数的解釈 - ‎初期の試み - ‎代数学的解釈 - ‎ゼロ除算と極限
2. 数学で「A÷0」(ゼロで割る)がダメな理由を教えてください ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp ›... › 数学
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14/05/2007 - maru_i_nekoさん. 答えが ないから。 たとえばー 5÷0=Bとしましょうか。B×0=いくつに なりますか。 ゼロですよね。 とゆーことは、Bはゼロ?と思っちゃいますが、それだったらゼロ×ゼロが 5になってしまいます。おかしいですよね。
となっていて、290万件あるが、非常に当たり前の議論が多く、いわば、常識的な議論が多く、考え方などが幼稚であると考えられる。なを、6番目に再生核研究所の最近の成果が述べられている:
1. 再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る ...
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YoshinoriSaito
21/04/2014 - 再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方 再生核研究所声明148で 結構詳しい状況について説明し、特異点解明:100/0 =0,0/0=0 として 詳しい状況はブログなどでも公開、関係文書は保管されている。2月2日考えを抱い ...
そこで、 その問題から、 数学的な考え方と、創造的な精神について触れたい。
まず、どうしてゼロで割れないのか、という疑問が、繰り返し問われているが、これは世に問われている多くの問題、神の問題などと同様に、論理的に 発想そのものが 相当おかしな議論と言える。
これは、割り算の定義をしっかりさせないで、ふらふら議論している、神の定義もしないで、神のことについていろいろ議論を繰り返している。問題にしている、問題の意味を理解しないで、論じている訳であるから、まことに奇妙な議論であるが、世に多いと言える。注意したい。( 逆に言えば、難しい問題とは、問題の意味さえ分からないとも言える)。
次に、真面目に議論して、割り算、分数の定義に基づいて、 不可能である という議論が多い。それは、それで正しいが、ここで、重要な数学の考え方を指摘したい。
数学で不可能である、できないということは、数学のそういっている数学の理論体系では不可能であるといっている事実である。 数学上の不可能は、そういっている理論体系では 不可能であることをいっている。これは、裏からみれば、それを可能にする理論体系、数学が、考え方が、有るかも知れない という発想に繋がる。上記、グーグル、あるいは人類の歴史上、そのように発想しなかったのは、人類の愚かさであり、永い間の盲点であったと言える。― 実際、数学者が、可能にする考えは無いか と問うのは当たり前のことであるが、ゼロ除算は できないという、 先入観で考えなかったのではないだろうか。 しかし、 その問題は、物理学では ブラックホール現象や、ニュートンの万有引力の法則に 深刻な問題を提起してきている、事実もある。― 実際に、自然に割り算の定義を拡張して、簡潔な結果、ゼロで割れば、何時でもゼロであるという結果が導かれた。それらは、高校生レベルの数学で十分であった:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
数学については、上記声明の中で、発見の詳しい状況、位置づけなどについても触れているが、 新しい結果は、予想できない、驚嘆すべき結果を述べている。複素解析学では、1/0 は無限遠点、無限と考えられており、実数でも ゼロを小さな正か、 負の数でゼロに近づくと考えれば、正の無限大や、負の無限大に発散すると考えるのが、世の常識である。 それが突然、ゼロであるとして、強力な不連続性を示しているからである。 上記声明の中で、世に有る爆発や接触などの強力な不連続性を示す、 基本的な現象の型を与えるのではないかとの明るい、予想を展開している。 ここで、触れたいのは、全く、新規な現象が現れたときの 我々の取り組む姿勢、精神の問題である。
まず、人間とは何者であるかを確認したい:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
人間は何でも知りたい、究めたい、それが本能である。 しかしながら、そんなのはつまらない現象であると理解して、考えない英明な方は、それも もちろん良いのであるが、いろいろ考えると楽しいと想像するのが、真理を追究する人間の姿勢に合っているのではないだろうか。ユニバースには 何でもありで、いろいろ裏があると考える方が、人生や研究を豊かにするのではないだろうか。 ユニバースと数学は どのように成っているのか、知りたいと考える。
新しい割り算の意味の位置づけ、評価は 世界史が明らかにするわけであるから、どのような影響を 世界史に与えるかは、もちろん、直ぐには分らない(再生核研究所声明 41:  世界史、大義、評価、神、最後の審判)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M.Yamane,
New meanings of the division by zero andinterpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI:10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalizedinversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in LinearAlgebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
以 上

再生核研究所声明199(2015.1.15) 世界の数学界のおかしな間違い、世界の初等教育から学術書まで間違っていると言える ― ゼロ除算100/0=0,0/0=0
ゼロ除算は 西暦628年インドでゼロが文献に記録されて以来、問題とされてきた。ゼロ除算とは、ゼロで割ることを考えることである。これは数学の基本である、四則演算、加法、減法、乗法、除法において、除法以外は何時でも自由にできるのに、除法の場合だけ、ゼロで割ることができないという理由で、さらに物理法則を表す多くの公式にゼロ除算が自然に現れていることもあって、世界各地で、今でも絶えず、問題にされていると考えられる。― 小学生でも どうしてゼロで割れないのかと毎年、いろいろな教室で問われ続いているのではないだろうか.
これについては、近代数学が確立された以後でも、何百年を越えて 永い間の定説として、ゼロ除算は 不可能であり、ゼロで割ってはいけないことは、初等教育から、中等、高校、大学そして学術界、すなわち、世界の全ての文献と理解はそうなっている。変えることのできない不変的な法則のように理解されていると考えられる。
しかるに2014年2月2日 ゼロ除算は、可能であり、ゼロで割ればゼロであることが、偶然発見された。その後の経過、背景や意味付け等を纏めてきた:
再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8) 知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
再生核研究所声明176(2014.8.9) ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
Announcement 179 (2014.8.25): Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
Announcement 185 : The importance of the division by zero $z/0=0$
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
再生核研究所声明190(2014.12.24)
再生核研究所からの贈り物 ― ゼロ除算100/0=0, 0/0=0
夜明け、新世界、再生核研究所 年頭声明
― 再生核研究所声明193(2015.1.1)― 
再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について
ところが、気づいてみると、ゼロ除算は当たり前なのに、数学者たちが勝手に、割り算は掛け算の逆と思い込み、ゼロ除算は不可能であると 絶対的な真理であるかのように 烙印を押して、世界の人々も盲信してきた。それで、物理学者が そのために基本的な公式における曖昧さに困ってきた事情は ニュートンの万有引力の法則にさえ見られる。
さらに、誠に奇妙なことには、除算はその言葉が表すように、掛算とは無関係に考えられ、日本ばかりではなく西欧でも中世から除算は引き算の繰り返しで計算されてきた、古い、永い伝統がある。その考え方から、ゼロ除算は自明であると道脇裕氏と道脇愛羽さん6歳が(四則演算を学習して間もないときに)理解を示した ― ゼロ除算は除算の固有の意味から自明であり、ゼロで割ればゼロであるは数学的な真実であると言える(声明194)。数学、物理、文化への影響も甚大であると考えられる。
数学者は 数学の自由な精神で 好きなことで、考えられることは何でも考え、不可能を可能にし、分からないことを究め、真智を求めるのが 数学者の精神である。非ユークリッド幾何学の出現で 絶対は変わり得ることを学び、いろいろな考え方があることを学んできたはずである。そのような観点から ゼロ除算の解明の遅れは 奇妙な歴史的な事件である と言えるのではないだろうか。
これは、数学を超えた、真実であり、ゼロ除算は不可能であるとの 世の理解は間違っている と言える。そこで、真実を世界に広めて、人類の歴史を進化させるべきであると考える。特に声明176と声明185を参照。ゼロ除算は 堪らなく楽しい 新世界 を拓いていると考える。
以 上

かつお節は"スモーキー"!? 「白だし」に対する海外の反応は

かつお節は"スモーキー"!? 「白だし」に対する海外の反応は
エキサイト Bit
古屋江美子
1日前
いまや世界的なトレンドになった日本食。ブームを背景に、日本の“だし”文化などに注目が集まっているが、最近は「白だし」ファンも増えているのだとか。
白だしとは、ベースはかつお節や昆布などからとっただしに、白醤油や薄口醤油、砂糖、みりんなどを加えて作った万能調味料のこと。濃い口醤油やめんつゆなどと違い、たくさん使っても素材の色をそのままキレイに出せるのがメリットだ。
もともとは東海や九州エリアで広く使われていたが、1994年に大手メーカーのヤマキからも「割烹白だし」が発売されるなどして、いまでは全国区の調味料に。また、ヤマキでは10年以上前からアメリカや台湾などの海外でも家庭用の「割烹白だし」を販売しており、アメリカではこの6年で売り上げが2倍になるほど好評だという。
© Excite Bit 提供
海外での販促は、日系のスーパーなどでの試食販売が中心。白だしを使ったチャーハンやガーリックライス、きのこソテーなどのメニューを提案しているそうだ。試食販売で初めて白だしを知る人も多く、「こんなに簡単に日本食が家で楽しめるなんて知らなかった!」という反応が大半。なかには「スモークの香りを感じる」という人もいて、どうやらかつお節の風味をスモーキーと表現しているらしい。
「アメリカの試食販売では“チャーハンを作るのに白だしがないと困る”と、ケース(12本入)ごと買っていく中華系アメリカ人のヘビーユーザーもいました」(ヤマキ担当者)
家庭用の「割烹白だし」はアメリカと台湾のみでの販売だが、業務用はヨーロッパやオーストラリア、中国、アメリカ、台湾など広く展開。現地で手に入りやすい食材や調理方法を意識した海外向けのアレンジレシピも10種以上あるそうだ。
そんな海外向けメニューの中でも簡単に作れるという「白だしのジュレ」のレシピを教えてもらった。名前は難しそうだが、白だしをセラチンで固めてゼリー状にしただけ。とても簡単だ。
■白だしのジュレ
<材料>(8人分)
・粉ゼラチン……5g
・ぬるま湯……150ml
・白だし……50ml
<作り方>
(1)ぬるま湯と白だしをカップに入れ、粉ゼラチンを加えよく混ぜる。
(2)1時間ほど冷蔵庫におく。
(3)固まったら、好きな大きさにクラッシュして添える。
© Excite Bit 提供
冷奴のトッピングとして使ってみたら、なんだかすごくオシャレな仕上がりになった。もちろん味も良い。豆腐の他に、刺身に添えても合う。キュウリやチーズをのせたカナッペに添えたらホームパーティのおもてなし料理としても使えそうだ。
「寿司やラーメンをはじめ、日本食は海外でもより身近な存在になっています。しかしながら、日本食は外で食べるものという意識が一般的です。白だしを通じて、海外でのご家庭でもより身近なものになるよう今後も活動を続けていきたいです」(ヤマキ担当者)

再生核研究所声明34(2010/04/16):
日本のビジネス―日本料理店の海外展開
日本製品として、国際的に高い評価を得て、世界の富を日本国にもたらしてきたものとして、家電、カメラ、半導体、自動車などが 顕著なものとして、想起される。しかしながら、諸外国の台頭によって、日本国の大きな目玉となる産業にかげりが見えてきており、 国内には失業者があふれ、経済不振と、慢性的な財政赤字に陥っている。 日本国の再生の基礎は、根本的には教育を正し、精神をきたえ直す必要があると考えるが 一つの戦略を具体的に提案したい。要旨は世界の多くの都市に、日本料理店を展開すること である。
先ず、食に対する関心の深さは いずこも同じで、生きることとは 食べること にも通じるものがあり、食に対する関心、経費は、人間存在と活動の大きな部分を占めるという事実から、認識を深める必要がある。 日本料理は健康食品であると同時に、際立った特徴を有し、幸い、日本料理に対する世界の人々の関心の深さは 驚くべきものであり、現状よりは遥かに大きなビジネスチャンスを有すると考える。多くの日本人に、海外の日本料理店で働く職場を広く開拓して、同時に日本の文化を海外に紹介し、また逆に、日本人は海外に出ることによって、国際的な広い視野をもつ機会が得られて、好ましい効果が期待される。
これらのことは、比較的簡単に 少ない投資と準備で実現でき、大きな経済的、文化的な効果が望めると考える。 一つの国家戦略にしようではありませんか。 世界の多くの都市に、日本国の象徴として、美しい日本料理店を展開し、日本の文化を世界に紹介する拠点にしようではありませんか。 若者の雇用や、経済、文化への波及効果は 大きいと考える。もちろん、世界の平和にも大きく貢献するものと考える。
具体的に 次のように提案したい:
経済産業省、外務省、農林水産省などの関係省庁の積極的な援助、
文部科学省は、料理学校などを充実、格あげし、合わせて関係教養教育の充実も図る、
外国人向け 観光関係機関の積極的な支援、
国防省の組織的な支援: たとえば、5000億の資金を兵器の購入にかけるより、そのような面で援助して、日本料理店を通して世界の情報を組織的に得るシステムを確立する、また平和のための戦略を進め、観光促進の拠点にもする。 これこそ、愚かな軍事費を美しい営みにまわしたいとの想いの 現実的な一つの提案になるのではないだろうか。
日本料理店を拠点に、先ずは、世界的の人々の関心が期待される花道、茶道などの組織的な教室の開講を意図する。 また、そのような関係組織との連携を図る。さらに、日本庭園などの文化的な輸出も展望する。
既に相当数、日本人のいない日本料理店が存在する状況を調べて、日本人の派遣による より日本的な料理を浸透させるのは、最も手短な第1歩になると考える。 また、日本料理店の評価機関の設置の検討なども、なされるべきであると考える。
美しい特徴をもつ日本文化を もっと世界で活かそうではありませんか。 関係者のご検討と積極的な取り組みを期待したい。
以上

アジア杯 オーストラリアが韓国破り初優勝

アジア杯 オーストラリアが韓国破り初優勝
1月31日 21時07分
アジア杯 オーストラリアが韓国破り初優勝
サッカーのアジアカップは決勝が行われ、開催国のオーストラリアが延長戦の末、韓国に2対1で勝って初優勝を果たしました。
今月9日にオーストラリアで開幕したアジアカップは31日、シドニーで決勝が行われ、1次リーグのグループAで1位だった韓国と2位のオーストラリアが対戦しました。
1次リーグでは韓国が1対0で勝っていましたが、決勝はオーストラリアが前半終了間際にルオンゴ選手のミドルシュートで先制し、今大会ここまで失点がなかった韓国から初めて得点しました。
後半は両チーム得点を奪えず、オーストラリアの優勝かと思われましたが、終了間際に韓国のソンフンミン選手がゴールを決めて土壇場で1対1の同点に追いつき、試合は延長戦に入りました。
そして延長の前半終了間際に、オーストラリアは途中出場のトロイージ選手が押し込んで勝ち越し、2対1で競り勝って、地元開催のアジアカップで初優勝を果たしました。
優勝したオーストラリアは、2018年のワールドカップロシア大会の前の年にロシアで開かれる各大陸王者による大会、「コンフェデレーションズカップ」に出場します。
大会のMVP、最優秀選手には、決勝で先制ゴールを決めたオーストラリアのルオンゴ選手が選ばれました。
得点王は準々決勝の日本戦でもゴールを決め、通算5得点を挙げたUAE=アラブ首長国連邦のマブフート選手でした。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150131/k10015115751000.html

再生核研究所声明169(2014.6.25) サッカー観戦の印象 と 日本チーム強化の戦略
(サッカーファンからの要望によって、日本チームを強くする戦略を考察した。)
ワールドカップ日本の観戦をして、自国チームが負けるのは、生物の本能に由来するように、嫌なものである。 誰でもそうではないだろうか。― 生命には、本質的に切なさが存在する。― 数学などの研究を永くしてくると あまりにも厳しい世界で とても志す気には成れない。数学などの研究は 何十年のスパンで 長期戦略で進める求道や 真理の追究、人生の志に由来する。
サッカーは 子供の頃校庭でよくやったものであるが、勝負と言えるようなことをやったことは無く、全くの素人である。
しかし、今回の日本戦を見て、良い戦略、強化方法が思い付いたので、上記要望も寄せられた経緯も有るので、触れて、提案したい。言うは易く、行うは難しい??
特に、ギリシャ戦などでは、全体的な力では相当優位にあるように見えたが、結局、引き分けに終わった苦しい戦いであった。どうしてだろう。 それは、ゴールを決められない決定的な弱点にある。 ゴールを決めることは、サッカーで 優位に立つ 重要な、肝心な点 ではないだろうか。初戦についても言える。コロンビア戦についても言える。ゴールの機会は、結構あったと言える。
そこで、次のような訓練は 如何であろうか。
ゴールを狙える立場の人は、ゴールの枠にぶつけて、反射で ゴールを決める訓練を徹底的にやる。
この訓練は ゴールキーパーにはよらず、 何時でも安定的に練習ができ、何時でも、最も有効にゴール決める方法である。 本能かも知れないが、ゴールを狙うとき、わざわざキーパーにぶつけているような例が多く見られる。これは、極めて残念な場合である。ゴールを狙う機会はそう多くはないので、痛切残念、そのような場合には、国中でため息が聞かれる状況と言える。
条件反射的に、ゴールの枠にぶつけて、反射で ゴールを決めるような訓練を 徹底的にして欲しい。
総合的な力を付けるのは、専門家の課題であるが、この要点をしっかり訓練すれば、戦力は飛躍的に向上するのではないだろうか。実際、ゴールを決めている場合、ゴールの枠にぶつかって、ゴールを決めている場合が多く見られる。既にそのような訓練を意図的に行っているのではないだろうか。
サッカーの印象は、アジアや日本は まだまだ伝統が浅く、世界レベルから見ると、まだ力不足は否めない。 伝統は甘くはない。世界的になる、世界を狙う精神がどのようなものか、その精神がまだ、しっかり身についていないと言うことではないだろうか。 これは単にサッカーばかりではなく、近代科学や民主主義、人権、評価システム、大学の在りよう、マスコミの在りよう、政治家の在りようなどなど、欧米から 入ってきた多くが表面的な物まねで、それらの深いところの理解が 浅く、しっかりしていない状況と同様ではないだろうか。輸入したものを身に付けるのは、教えられ、学んだものを身に付けるのは、 一朝一夕にはゆかないのが、道理ではないだろうか。長期的な視点に立って、頑張って欲しい。
以 上

2015年1月31日土曜日

汝の敵を愛せよ ルカによる福音書 6章27~38節(口語訳)

汝の敵を愛せよ
ルカによる福音書 6章27~38節(口語訳)
しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。
ひとことお祈りいたしましょう。私たちの魂の羊飼いなる天の父なる神様。この新しい聖日の朝、私たちに呼掛け、遠くから近くから貴方の御前にこうして導いて下さった事を心から感謝いたします。貴方はいつも私たちに呼びかけてくださる御方であります。大胆に恵みの御座に近づきなさいと招いてくださる御方であります。誰でも重荷を負っている者は私のところに来なさいと招いてくださる主であります。一人一人それぞれの重荷があり、悩みがあり、苦しみがあります。そしてまた一人一人に勝利もあり、喜びもあります。貴方の御前に心を開き、罪を悔い改め、また感謝をし、貴方との交わりを今朝、得ることが出来ますことを感謝いたします。
神は光であって、神の内には暗きものは何もないとあります。そのような貴方に触れて私たちの心の、そして生活の暗闇を、貴方の光で満たしてくださいますように。そして私たちが暗闇ではなく、光の中を歩む光の子どもとしてくださいますように、どうか私たちの愚かさや足りなさや欠けを、そして罪を、すべて貴方の十字架の贖いをもって、お許しくださいますように。貴方に許された者、貴方が愛して下さる者、貴方が御目にとめて下さる者として、今朝もう一度立ち上がり貴方の内なる力によって生きる希望を、命を与えられる事を感謝いたします。今朝も貴方の御言葉を開いてください。そして光を放ってください。私たち一人一人のために、そして私たちが貴方を愛し、さらに深く貴方を愛していくことが出来ますように、思い煩いの多い私たちでありますが、どうかいつも心を貴方に向けて、私たちが生かされている意味をしっかりととらえる事ができますように導いて下さい。
どうか愚かなしもべを今朝のご奉仕のために清めて用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
「汝の敵を愛せよ」、とても難しいテーマを今朝与えられております。この日曜日の礼拝ではルカによる福音書を私どもは見ていますが、このルカによる福音書の六章の二十節から、その章の最後までのところにイエス様が語られた説教が記されております。
これはイエス・キリストがその弟子となっている人たちに対して、またこれからキリストの弟子になろうとしている人たちに対して語られた説教であると考えていいと思います。キリストの弟子になるということはどういう事なのだろうか、クリスチャンとはどういう人たちなのだろうか、そういった事がはっきりと示されている箇所であります。
そこにはいくつかのテーマが語られておりますが、今日はこの二十七節のところからご一緒に見ていきたいと思います。今日の聖書の箇所の冒頭に出てきますのが、キリストの教えの中でも最も良く知られている「あなたの敵を愛しなさい」という御言葉であります。この教えはこの説教の中のいくつかの一つではありますけれども、中心的な教えであることに間違いはありません。二十七節から三十六節までが一つのまとまりになっていて、そこに「あなたの敵を愛しなさい」という言葉が二回出てまいります。そこの箇所は、前半と後半にさらに小さなまとまりに分けることが出来ます。その小さなまとまり、つまり二十七節から三十一節までのところで、イエス・キリストの弟子になろうとしている人々の基本的な生き方が述べられております。「あなたの敵を愛し、あなたを憎む者に親切にし、あなたを呪う者に祝福を与え、あなたを辱める者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には他の頬をむけてやり、あなたの上着を取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持物を奪う者からは取り戻そうとするな。」
ある教会の牧師さんが、教会学校に熱心に来ていた一人の少年にこう言いました。「ぼうや、君は大きくなったら、右の頬を打たれたら左の頬を出すような立派な人間になるんだよ。」会うたびにその少年に言っていたそうです。するとある時、突然その少年が教会に来なくなってしまいました。道端で会って、「どうして教会学校に来ないの」と聞くと「だって、僕あんなのいやだよ。右の頬を打たれたら、僕だって殴り返したいもの」と言ったといいます。この子どもの気持ちは痛いほど良くわかるのではないでしょうか。私たち人間がもっているごく自然な心を表していると思います。殴られたら殴りかえすんだ。取られたら取りかえすんだ。そういう心をみんなもっているのではないでしょうか。そしてそのような心も、ある意味では人間の社会というものが成り立っていくための一つの基本であるといっても良いかと思います。
しかし、イエス様はキリストの弟子になろうとしている人々の基本的な生き方の原則を示されました。それはキリストについていこうという人たちは復讐しない、報復しない、仕返しをしない、自分を苦しめる人たちと同じような行為に出ない、その人たちと同じような生き方をしない、ということであります。これがキリストについていく人たちの基本的な生き方であります。人を苦しめる行為にどのようなものがあるかということが、ここに述べられております。人を苦しめる行為、それは人を憎む事、人の悪口を言う事、人を侮辱する事、暴力をふるう事、盗む事、人の親切心に圧力をかけて無理になんとかしてくれと求める事。こういう事を言う時に私は視線をどこに向ければいいか分からなくなりますけれども。礼拝ではいいのですが、小さな聖書の学び会なんかになると、視線をどこに向けてこういう事を言っていいのか・・・。
ここで私たちが気づかされますことは、このイエス様の教えを聞いている人たちは、他の人たちを苦しめている人たちではなくて、苦しめられている人たちであるということであります。人を苦しめるということは、あるいは人を辱めるという事は、神の国に生きる人々には本来無縁の行為であるとイエス様が教えておられる事が分かります。もう一つ分かりますことは、イエス・キリストの弟子になろうとする人々は、確かに苦しめられている被害者であるかもしれませんが、自分自身をいわゆる被害者とみなすのではないということであります。人からの暴言や侮辱に対して同じように仕返したり、不平不満をならべたり、あるいは何にも苦しんでいないよというような演技をするのでもなくて、積極的に神の国の原則である愛と許しと寛容をもって接する、ということが教えられています。そういう生き方というのは相手を打ち負かすための密かな戦略ではありません。戦略のために愛するという種類の愛もあるかもしれませんが、そうではなくて、そういう生き方は私たちがこうして神を礼拝し、神ご自身から学びとっていく生き方だということであります。このルカの福音書六章の三十五節後半のところに、このように記されています。“いと高き方は恩を知らない者にも悪人にも情け深いからである”神様は仕返しする神ではなく、恩を知らぬ者にも、自己中心的なわがままな者に対しても親切な方である、とキリストは言われます。そういう神様を私たちが礼拝している、その神様から学びとっていく、そのような神様の御性質を私たちもいただきたいと願っていく、そういう生き方を求めなさいと主は言われます。
次のまとまりであります三十二節から三十六節の中では、今述べられました原則が別の角度から述べられています。つまり、キリストの弟子となる人は、他の人の行為に対して同じ行為を返さないという原則であります。けれどもこの箇所においては、私たちを苦しめる人たちに対してではなく、私たちを愛し、私たちに親切にしてくれる人に対してであります。つまり私たちの生き方というのは私たちを苦しめる人たちに対して左右されないと同じように、私たちに親切にしてくれる人によっても左右されないという生き方だというのです。憎しみに対しては憎しみ、愛に対しては愛、そう言う生き方ではなくて、キリスト者の行為と人間関係とは、私たちが礼拝する神によって与えられるもの、そしてその神様はすべての人に対して、愛とあわれみをもって応じられる御方であります。そういう御方を礼拝するところから生まれてくる生き方を求める人が、いと高き方の子となるのだとキリストは言われます。神がすべての人に対して、恩知らずの人に対しても、自己中心的な人に対しても、わがままな人に対しても恵みを注がれる御方であるという事は、あのマタイの福音書では別な表現で記されております。そこでは“天の父は悪い人の上にも良い人の上にも太陽をのぼらせ、正しい人にも、正しくない人にも雨を降らせてくださる”そのように言われます。ルカの福音書でもマタイの福音書でも、ともに神様の徹底的な恵みが表されております。それと同時にこのルカの福音書もマタイの福音書もこのような神様の無差別のめぐみというものは、不公平ではないかと感じる人々がいることにも触れております。
マタイの福音書では二十章の葡萄園の例えがそれであります。朝早くから葡萄園で働いた人にも、夕方遅くなってからほんの少ししか働かなかった人にも、その葡萄園の主人は同じようにまる一日分の賃金を払ったという、あの例えであります。朝早くから一日中暑い中をまじめに働いた人たちは、それは不公平だと思うのは自然な事であります。そして主人に文句を言います。それに対して主人は「私が気前良くしているので、妬ましく思うのか」という質問を返すのであります。
またルカの福音書の中では十五章に出てきます放蕩息子の例えに神の恵みを不公平だと感じる人が出てきます。それは放蕩の限りをつくした弟息子のために、盛大な宴会を催す父親に対して「こんな不公平なことがあっていいのですか。私はいつも真面目に働いているのに、私の弟にはこんな宴会などしてくれて、私にはかつて宴会などしてもらったことがない。なのにあの自分勝手なわがままの限りを尽くして帰ってきた弟のためには、こんなに御馳走をだすのですか」とお兄さんは訴えるのです。その兄息子の訴えに対して父親は「このあなたの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当たり前ではないか」と答えます。神様はその恵みを受ける資格を全く持たない人にも豊かな恵みを注ぎ、心にとめ、かえりみてくださる、それが神の徹底した恵みだとキリストは示しておられます。私たちもまたそういう神様の恵みに対して、問題を感じるのではないでしょうか。人がどういう生き方をしていようとも、神は恵みを持って応じられる。しかもキリストについていこうとする私たちもまた、神と同じように人々に愛と寛容と許しをもって接しなければならない。それは不公平ではないか。あの放蕩息子のお兄さんの言葉が私たちに心に響いてくるのではないでしょうか。
ある方が私に「アマデウス」という映画をご覧になった事がありますか」と言われました。「いいえ、マダデウス」といいましたけれども・・・。「あれは是非見てください」と言われて、どんなものだろうかと思って借りて見たのであります。ご覧になった方もいると思うのですが、それは音楽家モーツァルトについての作品であります。どこまで史実にもとづいた物語りであるか私にはわかりませんが、モーツァルトと同じ時代に音楽家として活躍したサリエリという人がモーツァルトに激しい妬みを覚えるというテーマであります。
サリエリという音楽家は貧しい家の出身で、努力に努力を重ねてやっと宮廷音楽家として雇われ、日の目を見た人であります。彼は真面目で礼儀正しく、謹厳実直な人であります。ところがモーツァルトは若い天才音楽家として彗星のごとく現われます。彼が作曲する音楽はどれもこれも人々の心を感動させるものであります。ところがこれもどこまで史実に基づいているか分かりませんが、モーツァルトは品性に欠け、非常識で不真面目で遊び好きで、お金にルーズで、しかも他の音楽家たちを平気で侮辱する、高慢きわまりない人であったとあります。そしてこともあろうに宮廷音楽家であり、品行方正な道徳心の高いサリエリを公衆の面前で愚弄したのであります。モーツァルトは天才の持つ無邪気さというか天真爛漫というか、悪意はないのでありますけれども、ただあまりにも自分の音楽に自信をもっていたために、他の音楽家がくだらないと思えたのでしょう。そんなモーツァルトにしだいに妬みと憎しみを持ちはじめたこのサリエリは、ある時神様に訴えます「神よ。なぜ貴方はあんな品性の欠けた、人間として道徳心もない愚弄な男に、あのような音楽の才能を授けられたのですか。私はどうなのですか。一生懸命努力し、真面目に働き、人一倍苦労してきたのに、私には彼のような才能を下さらないのですか。神よ。私は貴方が理解できません。」そのように訴えるこのサリエリは若いモーツァルトの音楽の仕事が失敗するようにあらゆる工作を始めるのであります。しかし、彼が企む事がすべて裏目に出て、モーツァルトはますます世間の評価を得るようになっていきます。そしてサリエリは落ち目になっていくのであります。このあたりは映画のためにかなり強調してコミカルに演出しているのだと思いますけれども、このサリエリの怒りと憎しみ、恨みは心頭に達するのであります。最後にはモーツァルトが病気になった時、サリエリは彼を看病していると見せかけて、モーツァルトに病気を押して作曲に集中させ、とうとうモーツァルトは若くして死んでしまいます。モーツァルトが亡くなった後も、彼の音楽はますます世界中にひろがっていきますが、サリエリの音楽は人々から忘れ去られていきます。そしてサリエリは自分がモーツァルトを殺してしまったという罪の意識で、それから何年も何年も苦しみ続けるという内容であります。
この作品の全体を通して、素晴らしいモーツァルトの音楽が流れ、エンターティメントとして楽しませてくれる作品ではありますけれども、そこで取り扱われてテーマは実に重いテーマであります。神は不公平ではないかというテーマであります。神は恩知らずの者にも、自己中心でわがままな者にも、情け深くめぐみを豊かにそそがれるというのは、不公平ではないか。それでは真面目に道徳的に生き、一生懸命努力している者が損をするのではないか。しかも私たちも、神様と同じように、恩知らずの者にも、自己中心でわがままな者にも親切に愛と許しと寛容を持って接していかなければいけないといわれるならば、どこに正義があるのだろか。どこに公平があるのだろうか。神様の無差別の愛というのは、実は不公平ではないかという問い掛けであります。その疑問に答えるために三十七節と三十八節が記されております。“人を裁くな、そうすればあなた方も裁かれる事がない。人を罪人だと決めるな、そうすればあなた方も罪人だと決められる事がない。許しなさい、そうすればあなた方も許される。与えなさい、そうすればあなた方にも与えられる。押し入れ、ゆすり入れ、あふれるほどに量をよくしてふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量りで量り返されるからである。”弟子たちに、どんな人に対しても、寛容な心をもって生きる事を自分の生き方とするように教えられたキリストは、ここで人を裁いてはいけない、人を罪人だと決めるなと言われます。文字通り訳しますと“裁く事を止めよ、責める事を止めよ、人を非難する事を止めよ”ということになります。
イエス様のこの教えを聞いていた当時の群衆の中には、人生は不公平ではないかと思って、他の人を責めたり非難したりしていた人がいたと思います。人を恨んだり、妬んだりした人もいたでしょう。ですからイエス様はここで公平という事について語られます。“あなたが量るその量りで自分も量り返されるからである”と言われます。これが公平なのだと言われます。あなたが人に寛容であれば、人はまたあなたに対して寛容になるであろう。あなたが人を愛せば、人はあなたを愛するであろう。あなたが人を許せば、人はあなたを許すであろう。あなたが気前よく人に与えていけば、人はまたあなたに与えるであろう。そればかりかあなたがもし、私についてきて私の教えるこのような生き方をするならば、人々はあなたのふところにあふれるほどの報いを与えるであろう。これが人生における神の真意なのだとキリストは教えてくださいました。神様は決して不公平ではない。あなたが蒔くものをあなたが刈り取るのだ。あなたが愛を蒔けば、あなたが愛を刈り取る。あなたが許しを蒔けば、許しを刈り取る。寛容な心を蒔けば、寛容を刈り取るであろう。だから人を愛する事において、人に親切にする事において失望してはいけない。神様の愛を生きることにおいて怯んではいけない。その道に励んでいくならば、時が来れば豊かな実を刈り取ることになるであろう。悪を成し遂げようとする者に腹を立てるな、主を信頼して善を行なえ、地に住み誠実を養え、主をあなたの心の喜びとせよ、主はあなたの心の願いを叶えてくださる、主はこのように語られました。
戦前の事であります。ある小さな村に、人々からぺパジ兄さんと呼ばれている一人の人がいました。ぺパジとはその地方の言葉でクルクルパーという意味であります。ぺパジ兄さんはその村で、大人の人から「ぺパジのあほ、まぬけ、バカ」と言われていました。それがいやだったからでしょうか。ぺパジ兄さんは子どもたちが遊んでいるところに寄ってきてじっと見つめていました。そのうち自分もやりたくなって子どもの遊びの輪の中に入っていきました。初めてぺパジ兄さんが子どもたちの遊びの輪の中に入った時、子どもたちの手を取って「かごめ、かごめ、篭の中の鳥はいついつである、うしろのチョウメンだ~れ」とたどたどしい言葉で歌いました。ぺパジ兄さんは言葉が不明瞭で手足に軽いマヒがありました。ぺパジ兄さんは、子どもたちと遊んでいる時は満面に笑みを浮かべてとてもうれしそうであります。その日以来、来る日も来る日も、子どもたちはぺパジ兄さんの後を追いかけるようになりました。ぺパジ兄さんは村中で一番のノッポで、大人たちは「あほだから、ノッポなんだ」と言っていました。ぺパジ兄さんが子どもたちの世界に入ってきてからは子どもたちの遊びの世界がぐんぐんと広がってきました。ある時は子どもたちを山に連れていき、こくわや山葡萄を子どもたちの両手一杯に採ってくれました。ある時は左手が不自由なのに汗まみれになりながら、子どもたち一人一人にチャンバラごっこの木刀を作ってくれました。子どもたちが夢中になって遊んでいて一人の子どもが足の付け根から血を出したことがあります。その時ぺパジ兄さんは血の出ている足をなめながら、大切にしていた日本てぬぐいを首からはずして包帯代わりに手当てをしてくれました。奥山で遊びほうけて山を越えて野を越えて、急な坂道になると、ぺパジ兄さんは一番小さな子どもをおんぶし、次に小さい子どもをひょいと右の脇にかかえます。坂道を降りながらはるか向こうの水平線に真っ赤な夕焼けが沈もうとする時「ゆうやけ、こやけ、日が暮れて、山のお寺の鐘がなる、お手々つないでみな帰ろう、カラスといっちょに帰りまちょう」と歌います。ぺパジ兄さんは、昔からのいろいろの遊びを子どもたちに教えてくれました。遊びに飽きたら子どもたちを川辺に連れていきました。川縁で石をそっととり、川底をほじくると、ザリガニがざっくざっくと出てきて、子どもたちは嬉しさのあまり飛び跳ねました。ぺパジ兄さんは岸辺で一生懸命石でザリガニの家を作っていました。子どものザリガニには小さな部屋を、親のザリガニには大きな部屋を。そんな時、ぺパジ兄さんは子どもたちにサルカニ合戦の話をしました。そのうちに子どもたちの一人がザリガニの爪をとってしまいました。ぺパジ兄さんはその子からそのザリガニを受け取り、掌にのせ涙を流していました。またある時は、池の蓮のうえに乗っている蛙を見て、だれが最初に石を投げられるかのジャンケンをしている時、いつもニコニコ笑っているぺパジ兄さんがすごい勢いで「ダメだ。蛙、生きているべ。」と叫びました。この世の中、生きているものすべて、命を与えられているのだという事を子どもたちは体で感じとっていたのでありました。
そんなふうにぺパジ兄さんと共に喜び、共に遊んだ二年間の後、子どもたちは悲しみと苦しみのどん底へ入って行きました。というのもぺパジ兄さんが軍事教練にかり出されたからであります。敵に見たてた藁人形を竹やりで突く、という軍事教練で、ぺパジ兄さんは列の最後に並びます。次々と突進し、最後にぺパジ突進という号令をかけられます。ところがぺパジ兄さんは竹やりを持って藁人形に向かっていくのですが、十メートルくらい前から足が震え、結局竹やりで藁人形を突けなくなるのです。「バカ、もう一度やり直し」と怒鳴られ、やり直すのですが、掛け声はエイヤーと出しても、それは子どもたちと遊んでいる時の元気な大きな声ではなくてか細い声で、竹やりで藁人形を突きさす事は出来ません。そうこうしているうちに教官に怒鳴られ顔面を平手打ちされ、頭を殴られます。ぺパジ兄さんをいじめるのは教官だけではありませんでした。教練に参加している他の大人たちの中にも、事ごとにぺパジ兄さんをいじめる人がおりました。そんな様子を目の当たりにするのは、子どもたちにとっては胸の張り裂けるような思いでした。子どもたちはぺパジ兄さんの軍事教練の終わるのを小学校の裏でじっと待っていました。教練が終わると、子どもたちは大人たちがいなくなるのを見計らってぺパジ兄さんのところへ駆け寄り、物置小屋に連れていきました。ぺパジ兄さんは子どもたちを見て微笑んでいました。子どもたち一人一人の名前を呼び、代わる代わる「ようこ、マー坊、ミー、だだち、もとこ」と頭をなでます。一人一人の胸の中はぺパジ兄さんに頭をなでてもらった事の嬉しさと喜び、それと裏腹に、なぜ大人たちはこんなに優しく素晴らしいぺパジ兄さんをいじめなければならないのかという激しい怒り、そして悲しみがどっと沸き溢れ嗚咽していました。一人の女の子が「ぺパジ兄さん、藁人形、竹やりで突かないの、どうして、どうして」と聞きました。ぺパジ兄さんはその子の目を見つめて言いました。「教官が言ったべ、敵が攻めてきたら敵の目ん玉と腹めがけてどっと突けって。おら突けねべ。だって敵だって生きてるべ。突いたらチンデしまうべ。」ぺパジ兄さんの目から大粒の涙がポロポロとこぼれていました。子どもたちはそれから長い間、ぺパジ兄さんの涙の意味を問い続けていました。そして子どもたちは、ぺパジ兄さんから愛ということを教えられました。あの時のぺパジ兄さんの涙を通して、愛する心の美しさと偉大さに触れたのでありました。ぺパジ兄さんは子どもたち一人一人にとって、生きる意味を教えてくれた人生の教師でありました。
その時の一緒に遊んだ子どもたちの一人は、現在知的ハンディを背負っている子どもたちが生活している児童施設で、子どもたちの笑顔と笑い声に支えられて、喜びの時を分かち合う幸せな人生を送っておられます。そして一人でも多くの人に、このぺパジ兄さんの心を伝えることを使命と思って努めていらっしゃいます。愛は愛を生み出し、許しは許しを生み出します。そして寛容は寛容を生み出します。キリストは言われました。“人々にして欲しいとあなた方の望むことを、人々にもそのようにしなさい”と。
お祈りいたしましょう。天の父よ、イエス・キリストの教えられている事は、私たちには無理な事のように思われ、到底私たちには出来ないものと思ってしまいます。憎しみに対しては憎しみ、侮辱に対しては侮辱、無礼に対しては無礼をもって返したい、というのが私たち人間の自然な本能的な心の動きであります。しかし、そのような生き方にはカサカサとした味気ないものしか残らず、私たちの心はいつしか壊れてしまいます。けれどもキリストの示された道、それは命と光と喜びの道でありました。愛と許しと寛容の道であります。主よ、どうか私たちが貴方との交わりを深くし、貴方のめぐみを汲み取って、貴方の命を私たちの内に注いでくださいますように。今、人の不正や暴言や辱めによって傷つき悩み苦しんでいる人々に、どうか貴方の命と光と御愛を注ぎ、正しく、また力強く忍耐強く生きていくものとさせてくださいますように。私たちの主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/