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木村正人2014年10月07日 22:09ノーベル賞受賞も、日本の研究環境を取り巻くお寒い状況
今年のノーベル物理学賞は、青色の発光ダイオード(LED)を作った赤崎勇・名城大教授(85)と天野浩・名古屋大教授(54)、青色LEDの製品化に成功した中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(59)の日本人3人に贈られることが7日、決まった。
日本のノーベル賞受賞は南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授(米国籍)を含め22人。自然科学3賞の受賞者はこれで19人だ。
中村教授は日亜化学工業(徳島県阿南市)の研究員時代に青色LEDを製品化したが、1999年に退社して翌年、カリフォルニア大学サンタバーバラ校に移った。
2001年、中村教授は特許発明の対価をめぐって日亜化学工業を提訴、一審が200億円の支払いを企業側に命じ、05年に約8億4000万円の支払いで和解している。
才能は、より恵まれた研究環境を求めて、国境を越えていく。6日、ノーベル医学生理学賞の共同受賞が決まったジョン・オキーフ英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)教授(74)は米国生まれだが、英米の2重国籍を持ち、英国で研究を続けている。
オキーフ教授と、ノルウェー科学技術大のマイブリット・モーセル教授(51)、夫のエドバルト・モーセル教授(52)の3人は、人間が空間の中で自分の位置を把握するのを助ける神経細胞を発見した。
研究開発費と移民を制限しないことが重要だ
オキーフ教授は英メディアに対し、受賞の喜びとともに、研究開発費の重要性、移民制限と過剰な動物保護がもたらす弊害について語っている。
「私はUCLで博士号を取得しました。英国の科学に対する態度を学びました。想像するのは難しいでしょうが、仕事にありつけるとは夢にも思っていませんでした。しかし、博士号を取得したとき、世界は自分のものになったのです」
「自分の成功にとって英国の資金提供システムが重要でした。米国のシステムならやっていけたかどうかはわかりません。科学は英国にとって知的な生命の一部です。いつも科学により多くのお金を使うべきです。科学への好奇心が大切です。私たちはそれを育み、勇気づけていかなければなりません」
オキーフ教授は、新しい民間のセインズベリー・ウエルカム研究センターで150人の神経科学者を採用しなければならないという。一方、政府の公的な研究・開発予算は全体で2011年から46億ポンド(約8千億円)に固定されたままだ。
さらに現在のキャメロン政権は2015年までに移民の純増を年間10万人にまで減らす移民制限を目標に掲げている。メイ内相は数万人に減らすと言及している。
「かつては博士課程修了直後の科学者を見つけて採用するのが簡単でした。事態は今や変わっています。英国をもっと科学者に開かれた国にすることを強く意識しています。移民制限が大きな障害になっているのは本当です。若くて最も優秀な研究者を雇うのを難しくしています」
英国では動物実験を全廃しようという声があるが、オキーフ教授は「この国では動物実験をめぐる建設的な議論がありません。もし、医学、生理学分野で発展したいのなら、動物実験は続ける必要があります」と警句を発している。
ノーベル賞受賞は、日本の子供たちの科学的好奇心を刺激する喜ばしいニュースだ。
だがしかし、日本は受賞の歓喜よりもオキーフ教授の言葉に耳を傾ける必要がありそうだ。
日本の「失われた20年」
金融バブル崩壊後、「失われた20年」に苛まれた日本の研究環境はお寒い限りだ。文部科学省の科学技術・学術政策研究所の報告書「科学技術指標2013」から、大学部門研究開発費の指数のグラフを見てみよう。
大学部門の研究開発費g
2000年を100にして研究開発費の伸びをみると、日本(110)は他の主要国に大きく引き離されて低迷している。10年時点で中国は778、韓国は304という高い伸び率を示している。
内閣府「世界経済の潮流 2012年」の研究開発効率のグラフでも日本は著しく右肩下がりになっている。
[画像をブログで見る]
日本は移民に対する考え方が極めて保守的だ。このため日本の大半の研究者が国際ネットワークから隔絶された格好になっている。
世界から閉ざされた状況下でさえ、日本の博士号取得者の置かれている環境には極めて厳しいものがある。前出の科学技術・学術政策研究所が2002~06年に博士課程修了直後の職業の内訳を調べたところ、下の円グラフのようになった。
[画像をブログで見る]
欧米諸国に比べて日本はデータの整備がまだ十分できていないことも一因だが、不明23%、その他10%を合わせると全体の3分の1を占めているのが気になる。
日本の大学ではいったん教授になればその地位は保証されている。裏を返せば職場の流動性は皆無に近いということだ。方や民間企業では、研究開発の9割が既存技術の改良に向けられ、博士課程修了者は「すぐに活用できない」「社内の研究者の能力を高める方が効果的」といった理由で敬遠されがちだ。
スーパーグローバル大学は機能するか
「スーパーグローバル大学」構想を推進する文部科学省は今後10年間、外国人教員の数を増やし、資金を選ばれた37校に集中させる。狙いは世界大学ランキングのトップ100位位内に10校をランクインさせることだ。
しかし、元三重大学学長で前国立大学財務・経営センター理事長、鈴鹿医療科学大学の豊田長康学長はこう警鐘を鳴らしている。
「日本の国というのは経済協力開発機構(OECD)諸国の中で、高等教育費については対国内総生産(GDP)でとると最低の公的資金しか投入していない。OECD諸国の半分しか出していない。研究費も同じなんです。最低です。人口当たり、GDP比で最低のオカネしか出さずに、世界の大学ランキングだけを上げようというのは難しいと思います」
スーパーグローバル大学への選択と集中ではなく、大学の研究に向けられるパイを倍増する知恵と工夫が必要だと豊田学長は説く。まず博士課程修了者に潤沢な研究資金と研究時間を与える必要がある。
日本のシステムは「失われた20年」の前はきちんと機能していたことは、赤崎、天野、中村3氏のノーベル物理学賞受賞決定でも改めて証明された。
しかし、問題は過去の栄光ではなく、未来の可能性なのだ。才能という人材、お金が自由に世界を駆け巡るグローバル化の時代、旧態依然とした日本のシステムは完全に国際競争力を失っている。
国際競争を恐れるのではなく、立ち向かっていくことが重要だ。閉じられた日本のシステムを流動化させ、世界に開くことに21世紀を生き抜くカギがあると筆者は実感する。
再生核研究所声明 44 (2010/06/26):
梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
初めに、大谷杉郎 群馬大学名誉教授の 宮大工(…… その晩、「梅の木学問」という言葉に出会った。梅は成長は速いが大木にならない。そのように、進み方は早いが学問を大成させないで終わるのをいうのだそうである。その反対が、成長は遅いが大木になる「楠くすのき学問」だと書いてある。西岡棟梁の話を聞いた直後だったので、千年の先を見極め、千年以上も生きつづける学問を「檜学問」と呼んでも良さそうである。学校教育の目標はこれにして欲しい。: 夜明け前 よっちゃんの想い 158-160)を想い出し、日本の研究者育成の観点から、考察を行いたい。
先ず第1に述べたいのは 研究者の育成や、教育の問題は、 在りよう、考え方、目標などいずれも多様性が大事であり、いろいろな考え方や見方を尊重する必要があるということである。 従って、ここでの議論も一つの視点と柔軟に考えて頂きたいということである。
( …… しかし、何よりも大事なことは、個々の意見ではなくて、このようにいろいろ考え、いろいろな意見をまとめ、多くの人の意見を交換していくことと思っています。 私は、そのきっかけを与えようとしているに過ぎません。──哲学は教えられない、ただ哲学することが教えられるだけだ──という言葉が想い出されます。私は、専門家や知識をもっている人だけが良識や見識を持っているとは考えず、善良な市民の感覚のなかにこそ、大きな真実と良識があると思っています。ですから、いろいろな広い人たちからのご意見や提案を期待しているのです。 2009 年7月23 日 にて)
次に、上記 大谷教授の宮大工 の引用部分の 前の本文は、 宮大工の心意気と癖組などの考え方など 誠に心惹きつけるものがあるが、上記引用部分の考え方には 多少の疑念も湧くが、他方、心惹きつけるものもある。
疑念とは、進み方は早いが学問を大成させないで終わる 生き方、学問も個性として、それはそれでいいのではないか、逆に 千年以上も生きつづける学問が良いとは限らないという価値観と視点である。― 梅も檜も それぞれに良い。
それにも関わらず、現在の日本の研究者育成の観点から、この件について、危惧の念を抱かざるを得ない。 それは特に 共通テスト開始以後、特に顕著になっているのは いわゆる国立大学の法人化移行後の 悪しき風潮に対する危惧である。
共通テスト開始以後 盛んになったのは、細切れの知識偏重と大学の画一化による点数による序列化、入試技術の専門化などである ― それ以前の入試の多様性と時間的な余裕を比較されたい。国立大学の法人化移行後は、財政状況の悪化と共に評価,評価の嵐と悪しき成果主義と膨大な雑用の増加である。
その結果、これらに対応できる研究者とは、受験体制に調子良くのれ、大学院でも早く成果の出せる上記梅の木型の研究者となりかねない状況ではないかと危惧せざるを得ない。
なるほど、優秀な研究者は どのような環境、体制でものり越えて、良い研究業績を上げることができる という見解には 誠一理あるが、しかしながら、多くの労力を費やし、雑念を入れ、結果として、能力を生かせない状況が広く存在していると考える。才能を活かせず、才能を殺してしまう状況が世に多くあると考える。また、それゆえに、いわば大器晩成型の多くの才能をうずもらせてしまうのではないかとおそれる。
言いたいことは、学部あたりまでの教育には 時間的な余裕を与え、人生や世界、自然などに想いを致したり、あるいは友情を育てたり、自らを顧みることのできる余裕を用意することである。 そこで、人生の基礎をしっかりと身につけて欲しいと考える。- また、そのような余裕のうちから、イチロー選手や、谷亮子選手、荒川静香選手、坂本龍一氏のような 多彩な才能が芽吹くことが期待できるのではないだろうか。天才教育や少年留学なども大いに進めて頂きたい(声明9)。
ここで、さらに気になるのは、かつて安保闘争や学園紛争に見られたような、若者の元気さが失われ、無気力、無感動、元気のない学生の増加である。世界についても、哲学についても、真理の追究などについても 聞くことは もはや稀である。 小手先の学力をつけることに追われて、精神面や健康面が失われているのではないかと危惧される。
他方、大学院以上においては、成果、成果と急がずに 研究課題の選択や、基礎について深い、広い視点が持てるように、経済的にも時間的にも十分な待遇を用意すべきである。何事初めの段階における取り組みは、 将来に亘って、決定的に大事になると考える。
初期段階において、目先の成果を求めれば 研究課題は成果が得られ易い、個別の研究課題となり、しっかりとした研究課題が確立できないのは当然ではないだろうか。 どんな課題でも 研究成果を出すのは容易ではないから、それらに集中しているうちに、その研究課題の枠外から出られないように陥り、研究課題が小さな世界に特化してしまうのは、多くの普通の研究者の悲しい在り様と言えるだろう。
助教などの制度によって、助手の身分を 形だけ上げて、講義や雑用を課し、さらに任期制を導入したりして 処遇を悪化させているのは 大学人の反省すべき悪しき制度ではないだろうか。研究以外義務が無いような研究員として処遇するのは 若手研究者育成の要ではないかと考える。 実際、そのような時期に 研究の基礎が確立された研究者は 世に多いと考えられる。さらに、世界の指導的な研究者たちとの交流が 研究者の成長に大きく寄与した例は 非常に多いと考えられる。
日本の研究者育成の観点から、現状の問題点を総合的に見直して、よりよい位置づけと対応を考えるのは 緊急の現代的な課題であると考える。現状の風潮では、いざ本格的な研究活動に入るころ、若き研究者達が立ち枯れ病にかかってしまう危険性は 極めて高いと危惧される。
再生核研究所声明167(2014.6.21)大学などで アカデミックなポストを得る心得
再生核研究所声明167(2014.6.21)大学などで アカデミックなポストを得る心得
(本声明は あるポスドクの方の パーマネントポストに就く心得を纏めて欲しい との要望によるものである。安定した職に就きたいは 一 若い研究者の切実な願望ではないだろうか)
上記の観点で、また、安定した収入を得る心得、方法を纏めて欲しいとの要望も寄せられているが、研究者などは 大学などに きちんとした職を得ることが、生活を安定させる基本である。 一応、常勤職につけば 生涯生活は保証されるとして、極めて重要な人生の観点である。
これは人事権を有する、関与する人々、多くは関係教授の判断に左右されるが、一般的な観点と意外な観点も有るので、経験してきた、人事を顧みながら、触れてみたい。
まず、 アカデミックポストには、多くは 採用したい希望が述べられた、公募要項が有るのが普通である。 最近の人事では、多数の応募が有るから、それらの基準に達していることは、相当に必要であり、それらの基準に達しない場合には、相当に厳しいのではないだろうか。少なくても公募を公正に行なえば、厳しいと言える。多くの機関では、基準として、博士号を有すること、出版論文数など いろいろな基準が内規で定められている場合が多い、その時は、それらに達していることが 書類選考の段階でも 必要条件になってしまう。逆にみれば、そのような基準を軽く越えているように、整えて置くのは、研究者の処世の第1歩といえる。
しかし、社会も 大学もそう公正にいくものでは無く、担当者によっては、仲間を優遇したり、特別なコネが 公募精神の公正さを越えて、担当者の都合で、自分の都合で人事を行うことは結構多い。これには、研究課題が細分化し、高度化し 特別な仲間でしか、通じず、通じる仲間をとらざるを得ない状況を反映させていると言える。もっと進めれば、実権ある教授が、共同研究できる人物を、自分に寄与できる人物を探すような実状さえ 多く有するだろう。これは、公のポストでさえ、公正の原則に反するとは言えない。教授は研究を推進する大きな義務を負う者、共同研究者を探すのは大事である という観点が有るからである。 しかしながら、これも行き過ぎると、組織が専門的に偏りの人事構成に成るなど、弊害が出て来る面もある。組織や研究機関の理念に反して、機関において異質の人事構成になることは 結構多い。- 職を探す者は、そのような特殊性が有る場合には、公募要項を越えて、応募する機会があると考えるべきである。さらに進めれば、私をとれば、組織は、あなたは、このような利益を得ることができると、具体的に暗示することは、書類の作成段階でも良いのではないだろうか。
そのような面では、研究課題で、採用する者が決まる、強い要素がある。採用する側の研究課題と採用される者の研究課題の相性の問題である。研究組織は、抜群の業績と才能を有する者でなければ、研究組織内で 研究交流できない研究者を採用することは、 組織の拡大、カリキュラムの大きな変更など 余程のことが無い限り、ないのではないだろうか。このような観点からも、研究課題を、あまりにも狭い範囲に限定しないで、研究課題でも対話が広い分野で成り立つように 広げて置くのは良いことではないだろうか?
人事は採用する側にとっても極めて重要であるから、採用に責任ある者は、採用する者の人物評価を真剣に行うだろう。採用する人物の周辺についてもいろいろ意見を求め、人物についての良い定評があれば 人事を進める場合に極めて有効で、書類選考などでも大いに効果が出るだろう。これは国際会議や、研究発表場面などで 研究内容と人物評価を何時もされていると心得るべきである。そのような場面で、採用責任者の好感が定着されていれば、人事に相当に有効であろう。単に書類や文献で知る人物と、面識が有って、人物と研究課題で評価されている人物とでは 大きな評価の差が出て来ると考えられるから、研究交流は 大事な機会と捉えるべきである。その時、配偶者も交えて、良い評価が得られれば、強い印象を与えると言う意味で、さらに良い効果を生むだろう。採用責任者は 人物の背後状況にさえ、大いに気を回すだろう。人事は、いわゆる書類に現れた評価を越えて、人物評価、全人格が大きな評価の基準になると考えられる。― ここで、優秀過ぎる人材は、自分の存在を脅かす観点から、敬遠される要素もあると言う、適当な謙虚さは必要かも知れない。
コネや人脈などは 大いに大事にすべきであり、研究仲間を広げ 大きな機会の場を作るように研究活動、日常生活で心がけるべきである。相当な人事は そのような人脈、研究仲間を通して行われるのは 公募、公募、公正、機会均等と言っても、そう簡単には行かないのが 現実ではないだろうか。また、博士課程における指導教授の影響は、永く相当に強いのではないだろうか。
以 上
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