もはや哲学の域に!何度でも見返したくなる。手塚治虫の代表作『 火の鳥 』シリーズ
製作 さっちん · 2016年 4月 5日 (火曜日)
火の鳥
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手塚治虫が、マンガだけでなく文学や思想的にも凄すぎるという事を物語る作品「 火の鳥 」シリーズ。この作品に影響を受けた人は沢山いる作品だと思います。アニメをみて、自分自身を振り返ることができる、変われるような、とても深い作品です。ただ、手塚治虫は凄いといいたい。
手塚治虫の代表作の一つである『 火の鳥 』
火の鳥(不死鳥)を物語の中心にした一連の編より成り立つ漫画が元となり、それを原作とした映画、アニメ、ラジオドラマ、ゲームなど様々なものが作成されています。2004年に手塚プロダクション制作で、NHK-BSハイビジョンにて放送され、このアニメ版のテーマが「生命」。放送エピソードは「黎明編」・「復活編」・「異形編」・「太陽編」・「未来編」となっています。
古代から未来まで、地球や宇宙を舞台に、生命の本質、人間の業、手塚治虫自身の独特な思想を壮大なスケールで描かれています。『火の鳥』と呼ばれる不死鳥が登場し、火の鳥の血を飲めば永遠の命を得られるという設定で、主人公たちはその火の鳥と関わりながら悩み、苦しみ、闘い、残酷な運命に翻弄され続けることになります。
【黎明編】
村を滅ぼされた少年・ナギと、彼の村を滅ぼした猿田彦の間に芽生えた家族愛を描いた話。二人の家族愛だけでなく、ナギの姉の一家や永遠の命を求むヒミコなど、様々な人間のドラマが入り乱れていて、感慨深いものとなっています。
【復活編】
何百年何千年と未来の宇宙の物語。ロボット化した人間が、ロボットを愛するようになってしまう。今では映画や小説でもありそうですが、原作自体は1970年ですから凄いんです。
【異形編】
自分を殺す罪というテーマで、ある意味「自殺」ともいえる無限ループ。この回では今まであまり人と関わらなかった火の鳥が大きく物語に関わってくるのが面白いところです。
【太陽編】
敵に捕らわれて皮膚に狼の皮を埋め込まれた人間の話。一気にファンタジーな内容となり、民俗学的知識を生かした妖怪かなにかの存在。個人的にラストが見所。
【未来編】
火の鳥によって不死となった人間の数億年に渡る苦しみを描いた話。「命とは何か」、テーマとなっている「生命」でまとめられていきます。火の鳥(不死鳥)という話のラストに一番最適だと思える話です。
火の鳥
「生命」というテーマで、地球上の生命が絶滅しようとも、いつか復活を遂げ栄えるということを結末に持っていくことで、生命は一つで永遠だったと思える感動。
またいつかその繰り返しが起こるという輪廻に似た、運命という言葉さえも霞んでしまう、生命の強さ・素晴らしさがひしひしと感じられた素晴らしい作品でした。
心に傷を負うかもしれない!トラウマアニメ まとめ | あにぶ
高所平気症という言葉をご存じでしょうか? 高いところにいても全く恐怖心を抱かない症状のことをいいます。 この症状の何が危険かというと、高いところから身を乗り出しすぎてしまい、落下してしまう可能性が高くなるところだそうです。 恐怖という感情は大事です。 なぜなら、恐怖は危機管理や防犯意識と深くリンクしているから
あにぶ
ビデオマーケットボタンhttp://anibu.jp/05apr2016-hinotori-27507.html
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上
再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得
8歳の少年から、巨大素数の構造に興味があると聞いたときには驚かされた。生まれながらの感性と言えるものも確かにあるように感じられる。思えば、子どもの頃 星空を見るのが好きで、宇宙の営みの壮大さと人間の生涯の儚さを知って、そもそも人生の意義とは何だろうかという疑問を懐いたが そのころから永い歳月が夢のように過ぎた。気づいてみれば、何の変化も、進歩というほどのこともなく、在るように感じられる。しかしながら、結局,人生とはどのようでも結局は同じようなものであるという心境にいたれば、 それはそれで相当に良い状況であると言える。それは生まれたからには、人生を肯定したいという 誰しも懐くであろう心境だからである。
宗教関係者は あるいは宗教や信仰に興味を懐く人は、いろいろ心の準備や人間の在り様の心構えを,あるいはそのための修行の必要性を感じるかも知れない。しかし 結局はみな同じようではないだろうか。心の在りようには個性があって それぞれに 自分に合ったように考えるのが良いのではないだろうか。
そこで、内省の状況について 心の持ちようについての最近の心境を表現してみたい。
まずは、神の概念を想起したい。人間はなにものかによって作られたものであり、人間は生まれる前も、終末の後も、気づいてみれば、生きている現在ですら、定かには分からず、ただ本能に従って生かされているだけである。生きているだけである。それはちょうど母親の懐にあって、ぼんやり生きているような存在である。真智への愛と言っても、求道と言っても 食欲などと本質的に変わらないと言える。そこでは 人間も、動物も、植物も、草木や花も みな同じような存在にみえる。それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流さられるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。それゆえに われわれは良くは分からないが 大いなるものに愛されていると感じられる者は まこと幸せではないだろうか。心から祈り、祈れるものは幸せであるといえる。そのような意味で、古代人は幸せな存在であったともいえる。大自然とともに在ったからである。― 無明であるだけ、それだけ幸せな面が、明暗のようにあるように感じられる。
深い確信にいたらずとも、そもそも人類、地球といっても 所詮小さな 儚い存在であり、この世で拘るようなものは 何もない事実を、真実をしっかりと見つめれば、大きな自由を得て、安らかな終末を迎えられるのではないだろうか。そのとき、人生を、希なる機会として、肯定できるだろう。
そのような心境では、世界は より良く見えて、世の美しさと 人類の愚かさを実感できるのではないだろうか? 愚かな人類の世界史を恥ずかしく想起したい。
以 上
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。
以 上










製作 さっちん · 2016年 4月 5日 (火曜日)
火の鳥
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手塚治虫が、マンガだけでなく文学や思想的にも凄すぎるという事を物語る作品「 火の鳥 」シリーズ。この作品に影響を受けた人は沢山いる作品だと思います。アニメをみて、自分自身を振り返ることができる、変われるような、とても深い作品です。ただ、手塚治虫は凄いといいたい。
手塚治虫の代表作の一つである『 火の鳥 』
火の鳥(不死鳥)を物語の中心にした一連の編より成り立つ漫画が元となり、それを原作とした映画、アニメ、ラジオドラマ、ゲームなど様々なものが作成されています。2004年に手塚プロダクション制作で、NHK-BSハイビジョンにて放送され、このアニメ版のテーマが「生命」。放送エピソードは「黎明編」・「復活編」・「異形編」・「太陽編」・「未来編」となっています。
古代から未来まで、地球や宇宙を舞台に、生命の本質、人間の業、手塚治虫自身の独特な思想を壮大なスケールで描かれています。『火の鳥』と呼ばれる不死鳥が登場し、火の鳥の血を飲めば永遠の命を得られるという設定で、主人公たちはその火の鳥と関わりながら悩み、苦しみ、闘い、残酷な運命に翻弄され続けることになります。
【黎明編】
村を滅ぼされた少年・ナギと、彼の村を滅ぼした猿田彦の間に芽生えた家族愛を描いた話。二人の家族愛だけでなく、ナギの姉の一家や永遠の命を求むヒミコなど、様々な人間のドラマが入り乱れていて、感慨深いものとなっています。
【復活編】
何百年何千年と未来の宇宙の物語。ロボット化した人間が、ロボットを愛するようになってしまう。今では映画や小説でもありそうですが、原作自体は1970年ですから凄いんです。
【異形編】
自分を殺す罪というテーマで、ある意味「自殺」ともいえる無限ループ。この回では今まであまり人と関わらなかった火の鳥が大きく物語に関わってくるのが面白いところです。
【太陽編】
敵に捕らわれて皮膚に狼の皮を埋め込まれた人間の話。一気にファンタジーな内容となり、民俗学的知識を生かした妖怪かなにかの存在。個人的にラストが見所。
【未来編】
火の鳥によって不死となった人間の数億年に渡る苦しみを描いた話。「命とは何か」、テーマとなっている「生命」でまとめられていきます。火の鳥(不死鳥)という話のラストに一番最適だと思える話です。
火の鳥
「生命」というテーマで、地球上の生命が絶滅しようとも、いつか復活を遂げ栄えるということを結末に持っていくことで、生命は一つで永遠だったと思える感動。
またいつかその繰り返しが起こるという輪廻に似た、運命という言葉さえも霞んでしまう、生命の強さ・素晴らしさがひしひしと感じられた素晴らしい作品でした。
心に傷を負うかもしれない!トラウマアニメ まとめ | あにぶ
高所平気症という言葉をご存じでしょうか? 高いところにいても全く恐怖心を抱かない症状のことをいいます。 この症状の何が危険かというと、高いところから身を乗り出しすぎてしまい、落下してしまう可能性が高くなるところだそうです。 恐怖という感情は大事です。 なぜなら、恐怖は危機管理や防犯意識と深くリンクしているから
あにぶ
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再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上
再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得
8歳の少年から、巨大素数の構造に興味があると聞いたときには驚かされた。生まれながらの感性と言えるものも確かにあるように感じられる。思えば、子どもの頃 星空を見るのが好きで、宇宙の営みの壮大さと人間の生涯の儚さを知って、そもそも人生の意義とは何だろうかという疑問を懐いたが そのころから永い歳月が夢のように過ぎた。気づいてみれば、何の変化も、進歩というほどのこともなく、在るように感じられる。しかしながら、結局,人生とはどのようでも結局は同じようなものであるという心境にいたれば、 それはそれで相当に良い状況であると言える。それは生まれたからには、人生を肯定したいという 誰しも懐くであろう心境だからである。
宗教関係者は あるいは宗教や信仰に興味を懐く人は、いろいろ心の準備や人間の在り様の心構えを,あるいはそのための修行の必要性を感じるかも知れない。しかし 結局はみな同じようではないだろうか。心の在りようには個性があって それぞれに 自分に合ったように考えるのが良いのではないだろうか。
そこで、内省の状況について 心の持ちようについての最近の心境を表現してみたい。
まずは、神の概念を想起したい。人間はなにものかによって作られたものであり、人間は生まれる前も、終末の後も、気づいてみれば、生きている現在ですら、定かには分からず、ただ本能に従って生かされているだけである。生きているだけである。それはちょうど母親の懐にあって、ぼんやり生きているような存在である。真智への愛と言っても、求道と言っても 食欲などと本質的に変わらないと言える。そこでは 人間も、動物も、植物も、草木や花も みな同じような存在にみえる。それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流さられるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。それゆえに われわれは良くは分からないが 大いなるものに愛されていると感じられる者は まこと幸せではないだろうか。心から祈り、祈れるものは幸せであるといえる。そのような意味で、古代人は幸せな存在であったともいえる。大自然とともに在ったからである。― 無明であるだけ、それだけ幸せな面が、明暗のようにあるように感じられる。
深い確信にいたらずとも、そもそも人類、地球といっても 所詮小さな 儚い存在であり、この世で拘るようなものは 何もない事実を、真実をしっかりと見つめれば、大きな自由を得て、安らかな終末を迎えられるのではないだろうか。そのとき、人生を、希なる機会として、肯定できるだろう。
そのような心境では、世界は より良く見えて、世の美しさと 人類の愚かさを実感できるのではないだろうか? 愚かな人類の世界史を恥ずかしく想起したい。
以 上
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。
以 上
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