人間の尊厳とはなにか、考えます。
私たちは現代に生きているので、飛行機で移動できるし、
インターネットでこうして質問もできます。
私たちは何の心の痛みも感じないで、
これら現代の科学技術の恩恵を受けています。
あるいは、癌になったら、白内障になったら、手術や薬での治療を受けますが、
これも多くの人たちは必要な治療であると考えてその恩恵を受けています。
翻って、同じ科学技術であるのに、医療技術については、
「管をつながれて生きているのは人としての尊厳を奪われている」、
などと言う人がいます。
これはなぜなのでしょうか。
私が思うに、「人間とは」と考えるときに、「標準的な人間とは健康な人間である」、
と考えてしまう「くせ」があるからだと思います。
哲学で人間について考えるときも、この「くせ」から抜けられないでいるのではないかと思います。
質問です。
この「くせ」をなくすことで、「管につながれて生きている」ことを特別視したり、
尊厳が失われている、と考えないようになると思いますが、
どう思われますか。
参考資料
■詩
貧しい発想 岩崎 航
管をつけてまで 寝たきりになってまで
そこまでして生きていてもしかたがないだろ?
という貧しい発想を押しつけるのはやめてくれないか
管をつけると寝たきりになると生きているのがすまないような
世の中こそが思い病に罹っている
「点滴ポール 生き抜くという旗印」 より
■本 「点滴ポール 生き抜くという旗印」
ただ生きるは、人間として生きることにはならないのでは。
人間には寿命もあり、死は自然で 避けられもので、人間の自然な有り様を 尊重すべきでは。 過剰な医療は大いに問題では?
再生核研究所声明 47(2011.02.08): 肯定死
(2011年1月5日 9時10分、 浅草に近づき、電車の窓外の空を見たときに電光のように閃いた考えです。 新しい声明の案がひとりでに、わきました。 全構想は瞬時にできていましたが、それを検討し、成文化したものです。 題名は肯定死、という 現代では問題のある思想です。人間の終末に対する新しい考え方です。これは社会的影響が大きいと考えられるので、全文は 当分、公表を差し控えたい。)
そもそも人生とは何か、これを内からみれば、人生とは、個人の考え、知り、感じ、予感し、想像する、すなわち、知覚する全体であり、それらが良いと感じられれば、それだけ良い人生であると言える(声明12: 人生における基本定理)。 しかしながら、我々はまず、個々の人間を越えて、存在し、生き続けていく、 元祖生命体の考え (声明36) をしっかりととらえ、 生命の基本定理 (声明42) - 生きて存在しなければ、 何も始まらない - 元祖生命体の生存に心がける、 最も大事なこと(声明13)に思いを致すべきである。しかしながら、個々の人間は、遺伝子の乗り物のように滅びていくのが、事実であり、それはあらゆる生物の運命であると考えられる。 しからば、その人間の終末は如何にあるべきか。 それはちょうどあらゆる生物の終末のように、意識の存在の有る無しに関わらず、生物個体の生命として、人事を尽くして、少しでも生命を長引かせると考える、伝統的な考えは それなりの固有な意義を有するものであると考える。 否定するものではない。(以下 当分非公開)
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