人間は「生物なんて存在している意味なんて無い」と考えることができる地球上初の生物なのにどうして無意味な人生、活動を続けるのですか?
何十億年掛けて今の地球の生態系が在るわけですが、何十億年前に偶然化学物質が生き物になって種族間での競争の末、今の生態系、動物がいるわけです。
その何十億年の間は知能が少ない生き物が全てですから、なんにも考えずに死ぬものは死んで、子孫を残すものは残してきました。
その淘汰の末、人類は知能を獲得しました。地球上で生きるためには最強とも言える武器です。
しかし、人間は気づいてしまうのです。僕ら含め生物が子孫を残して競争して何の意味があるのかと。ただの化学物質が偶然生き物になって何も考えずに競争していろいろな機能を進化させてきただけじゃないかと。
自分の人生にはなんにも価値はないじゃないかってね。
でも「僕らには何の価値もない」って思想は何故か世界中では広まってないし、無意味な活動をし続けている。
何故なのか?
何故早く地球を爆発させて粉々にさせないのか?
何千年後の社会はこのことを理解し、無意味な社会の発達をやめて人類皆が幸せになれるように努力しているのか?
僕の思想が未来にいきすぎているのか?
補足人類の目標は無駄な活動を辞めて、皆が平等になることだとおもう。
だから、現時点で地球上の全ての人間を安楽死させるべきだ。
そしたら苦しむ人間は生きなくて済むし、幸せな人間は幸せなまま死ねる。
僕はついに人類が完全に平等になる方法を考えついてしまった。
数千年後には人類皆が安楽死していることを願います。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10136475155
生命の基本定理、生きて存在しなければ、始まらない。
人間は、何者かによって、そのように作られています。
いろいろ再生核研究所声明で、本質論を述べています。
再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと
世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。
国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。
特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。
この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。
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