2018年2月3日土曜日

経済発展に寄与した近代流思考と古代思想…現代に合致しているのはどちらか

経済発展に寄与した近代流思考と古代思想…現代に合致しているのはどちらか

 
 | 前野隆司 慶應義塾大学教授
人口が減少し、社会の成長が見込めない時代といわれます。一方で、科学技術の進化が、高齢化の進む日本の未来を、だれにとっても暮らしやすい社会に変えるのではないかともいわれています。わたしたちは一体どんな社会の実現を望んでいるのでしょうか。
 幸福学、ポジティブ心理学、心の哲学、倫理学、科学技術、教育学、イノベーションといった多様な視点から人間を捉えてきた慶応義塾大学教授の前野隆司さんが、現代の諸問題と関連付けながら人間の未来について論じる本連載。2回目は自身の研究をなぜ哲学や倫理学に広げていったのか、つづります。

[イメージ]哲学や倫理学の歴史から幸福学を考えるとその意味はどのようになるのでしょうか(写真:アフロ)
 幸福学研究者の前野隆司です。
 前回は、ロボットの研究から幸福学の研究に移った経緯について述べてきましたが、哲学的・倫理学的な経緯については述べていませんでした。今回は、その話から始めたいと思います。
 私は、実は、ロボットの研究をしていた頃に、「心の哲学」や「応用倫理学」の研究・教育も行っていました。
 「心の哲学」とは、そもそも心は何のためにどのようなメカニズムで存在しているのか、について考える分野です。近代にはデカルトが「我思うゆえに我あり」と言ったのが有名ですよね。私は今まさに今ここで考えている。考えているという事実がある以上、私の心というものは疑いようなく存在しているというべきである、というのがデカルトの主張です。
 私はこれに異論を唱えました。「我思う、しかし我は本当はないんじゃないの?」。受動意識仮説です。『脳はなぜ「心」を作ったのか』(ちくま文庫)に述べました。後日、機会を見て詳しく説明したいと思いますが、私の説は、心なんて幻想または錯覚みたいなものなのではないか、というものです。
 それから、技術者倫理教育。私は慶應義塾大学理工学部機械工学科の「創造と倫理」という科目を10年以上教えています。技術者は何をすべきか。何をすべきではないか。もちろん、してはいけないのは、賄賂、捏造、隠蔽、改ざん、偽装などの悪事です。倫理学とは、「べきである」の学問。哲学は「である」の学問。よって、倫理学と哲学は独立であると言われます。つまり、「である」から「べきである」は導けないし、「べきである」から「である」は導けない。
 「車はクリーンであるべきである」から「ハイブリッドカー」が導かれるではないか、と反論されたことがあります。もちろん、工学では、「べきである」から「である」を導きます。慶應SDMで教えているシステムズエンジニアリングでも、要求からシステムデザインを導くのは、まさに「べきである」から「である」を導く活動です。
 哲学と倫理学は、根本のところを論じる基礎的学問であって、工学はそれを応用して人の役に立つものやサービスを作る応用的学問である、という違いがあります。倫理学としての「べきである」から哲学としての「である」は導けない、というのは、「根源的なところでは」という前提の上での議論なのです。
 さて、哲学・倫理学の歴史を大雑把におさらいしてみましょう。
 紀元前5世紀ごろ、ソクラテス、ブッダ、諸子百家(孔子、老子、荘子など)などの思想家が生まれました。ドイツの哲学者ヤスパースはこれを枢軸時代と名付けました。世界史の軸となる時代という意味です。
 私は、このころから東洋と西洋が大きく別の道に分かれていったと捉えると歴史の全体を捉えやすいと思っています。「そもそも東洋と西洋というわけ方は乱暴だ」などの反論は予想されますが、ここでは、“全体”を大雑把に掴むものとご理解ください。
 そう、私は、“全体”に興味があるのです。根源的な問い、といいましょうか。
 そもそも宇宙はなぜ何のためにあるのか?
 そもそも心とは何で、何のためにあるのか?
 そもそも生きるとはどういうことか?
 死ぬとどうなるのか?
 そもそも人類はどのように進歩してきたのか(あるいは進歩してこなかったのか)?
 SDM学は(あるいは他の学問は)、そもそも何をすべきなのか?
 人はどのように生きるべきか?
 未来はどうなるのか?
 自分の研究領域を、工学から心理学、哲学、倫理学、経営学、宗教学、SDM学など様々な分野に広げてきたのも、このような全体的で根源的な問いにずっと興味があったからです。
 この連載で考えたいことも、これらのような根源的な問いです。今後何を書くのかは全く決めていませんが(笑)、上のような話になるのではないかと思っています。https://thepage.jp/detail/20180110-00000007-wordleaf

とても興味深く読みました:

再生核研究所声明 413(2018.2.3): 
考え方によっては、どちらでも有り得る

憲法改正すべきか否か。核武装すべきか否か。原発を廃止すべきか否か。などなど大きな問題が提起され、強い主張もそれぞれの立場で表明されている。この声明の趣旨は世の多くの問題は、考え方、見方で、いろいろあり得て、一方が正しく他方が間違っているとは言えない要素が強いということを述べたいということである。それで、固定観念に拘らず、相手の立場、意見に思いを寄せてできるだけ広い視野を持ち、人の意見や判断に耳を傾けないような態度をとるべきではなく、余裕と友誼の精神であるべき在りようを求めたい。真智への愛で 物事の本質に迫って在るべき姿を求めていきたい。
憲法は、本来敗戦で、戦勝国の強い意向を受けて理想的な国の在り様を求めて作られているが、アメリカの庇護も有って平和憲法として交戦権の否定や明確な意味に於ける再軍備を禁じている。日本の周辺国が平和憲法の精神に呼応しているとは言えず、アメリカも日本の自立を求めるような状況の中では、憲法を改正、徴兵制や核武装も志向すると言っても、何らおかしくはなく、それはそれで正論でありもっともな考え方である。しかしながら、そのような在りように対して、もし、憲法改正をこのような方向で行えば、当然の理である作用、反作用の原理で、周辺国が警戒を強め、軍拡競争を齎し、結局、何も良い影響を与えず藪蜂のような 軍拡競争の愚の流れに行くであろう。日本国として、軍事を抑制して、平和憲法の精神で、別格の国家の在り様を志向したいと考えるのも魅力的な 賢明な在りようであろう。しかし、どのような場合にも、国の安全は大事であり、広範な安全の在り様を進めるのは当然である。反作用の道理を考えれば、周辺諸国に脅威を与えないような配慮は賢い在りようである。情報力、文化力、経済力は普遍的な国力の象徴である。
原発問題は、もっと問題が複雑で扱いが不明ではないだろうか。一つには国家が総能力を掛けて推進してきた事実が存在し、またいわゆる欧米先進国、ロシア、中国なども開発して来た重い事実が存在する。およそ科学には利の面と危険な要素が本質的に存在する。そのような事業、俄かに全面廃止という訳には行かないのは、慣性の法則から言って道理ではないだろうか。しかし、日本の指導者、小泉氏、細川氏、菅氏などが高い立場、視点から反対を表明されている事実は重く尊重されるべきであり、原発に 慎重になり、ブレーキを掛けて行くのは 良い在りようと多くの人は判断されるのではないだろうか。
世の多くは、永い歴史の上に現在、現実があり、現状はそれなりに尊重して、在るべき在りようを慎重に考えるべきではないだろうか。多くは絶対的な在りようなどは存在せず、考えよう、場合、場合によって在りようが考えられると考えるべきではないだろうか。人は、よく、あれかこれか、どちらか か、マルかバツか の問いかけを行うが、本当に狭い、単細胞的視野、思考で世の中を見ているのが 人の現状ではないだろうか。人は 独断、偏見、思い込み、生い立ちの習慣、性格などで勝手に考え、見たりしていて、視野が狭く、議論もエゴの立場のぶっつけ合いで、実りある議論になっていないように見える。― 背後に より良い社会を築くためには、良い国、世界を築くためには の大義が弱く、自己の立場を中心に自己主張し過ぎの背景があるためではないだろうか。
例えばゼロ除算1/0=0/0=a/0= 0を発見して4年を過ぎたが、未だに 世の中では、ゼロ除算は不可能であるとの狭い従来の世界観に拘っていて、おかしな世界観にしがみついている現状がみられる。ゼロ除算の真相は、人間の独断、偏見、思い込みが いわゆるマインドコントロールされているように 如何に深いものであるかを 教えてくれるだろう。
要するに、世の中のことは、場合、場合により、状況によっていろいろ考えられると心得えれば、相当良いのではないだろうか。
以 上


再生核研究所声明 408(2018.1.25):  数学を越えて ― 価値あるものとは
(ゼロ除算の研究に専念してきた物理学者と興味深い議論をしてきた。 それで気づかされた視点である。)
数学の本質論:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
から、最近でも数学についていろいろな意見を表明してきている:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明 401(2017.11.18): 数学の全体、姿、生命力
再生核研究所声明 402(2017.11.19): 研究進めるべきか否か - 数学の発展
ゼロ除算の研究者は我々の研究グループを除いて世界で大体15名くらいいて、彼らの研究は今でも混乱していると言える。大きく分けると数学の基礎が無くて、論理が通じず、混乱している数学の愛好者たち、ゼロ除算不可能性に満足できず ― この元は多くは計算機がゼロ除算に会うと計算機障害を起こすが、それを回避することに動機がある ― 公理論的に独自の数学を建設している者、そして物理学上の立場からゼロ除算の研究に取り組んでいる者である。この最後のグループとの相当な議論をして感じたことを述べたい。― 尚、我々の研究グループは、内外大体8名である。ゼロ除算は本質的に解明され、基本は既に確定していると考えている。― 我々の存念を繰り返し内外に広く送っているが、上記グループからも批判が寄せられず、我々の主張を相当理解され、認めてきていると判断している。
特に二人の研究者はゼロ除算と物理学の関係を 人生をかけて、研究しているように見えるほど、研究活動が活発である。ところが繰り返し確認しているが、この二人はゼロ除算の定義、0/0の定義は何かとの質問に 定義はないと繰り返し言明している。それで数学者の立場からは議論はできず、論理的に考えられない状況になってしまう。論理的に矛盾であると言っても自分たちの立場を変えようとしないのである。事実は我々の結果に反して0/0=1 であると物理的な裏付けで主張され、数学がおかしいという考えを抱いていることが分かる。物理的な事実は数学を超えていると考えていることが分かる。多くの数学者はこの辺で交流を打ち切るのが 普通ではないだろうか。- 実際、彼らの理論は数学界でも物理学界でも受け入れられていないようである。
そこで、数学についてそのような視点から考えさせられることがある。いろいろな理論が提起されて、いろいろな結果が導かれる。何をもってそれらを評価し、価値あるものと判断できるかという視点である。公理系や論理も、仮定もいろいろ存在して、様々な研究成果が得られている。ここで、評価をどのようにするかである。ある純粋数学者は人類の名誉のためにこの問題を解いたと表現するが、他の人はそんなことは分からず、また興味も関心もないという。興味、関心の前に 結果そのものが分からないは 今や純粋数学ではほとんどであると言えよう。
数学とは何かを論じ、数学とは関係の集まりであるとして、良い結果とは、
基本的であること、
美しく感動させること、
そして 
世の中に良い影響を与えるものとして、
オイラーの公式が数学上の最高の結果であると表現した:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
T. M. Rassias, Editor, Nonlinear Mathematical   Analysis and Applications, HadronicPress,Palm Harbor,FL34682-1577,USA:ISBN1-57485-044-X,1998,   pp.223–234: Nonlinear transforms and analyticity of functions, Saburou Saitoh.

それで、結局は世界史に貢献できる結果こそが良い結果であると言えよう。
上記物理学者に 理論を越えてそれでは貴方の研究成果の効用、価値はどこにあるのかと 問う。すると反作用で、私たちの研究成果の効用、意義はこうであると応えなければならない。言わば、その証拠を分かり易く、明示する必要がある。- この精神で ゼロ除算の新奇な結果の位置づけ、重要性を説明するために 具体的な証拠を沢山探す必要性に迫られた。
数学者は、数学の自由な精神で自由に研究を進めても良いが、評価を求めるためには得た成果の意義、意味、価値を具体的に示すことが要求されると言える。
そこで、ゼロ除算の重要性を示すために多角的な取り組みを始め、いろいろな表現を考え、意見表明を行っている。数学者の名誉のために、人類の名誉ためにである。― 実際、数学には恥ずかしい初歩的な欠陥があると主張している。さらに、人はゼロ除算の真相から、人間の愚かさを自覚することが出来るから、人間の精神の開放に ゼロ除算は大きく貢献できると考えている。
以 上

再生核研究所声明 406(2018.1.8):  アジア不戦条約の提案を ― 批准を ― 丸丸お得な考え、方法
ユークリッド以来、2000年以上我々は間違った空間の認識をし、1300年以上ゼロ除算は不可能であるとの おかしな数学をしていたが、それらが明らかにされた現在、人類の愚かさを知らされて 世界を見ると、誠に動物以下の人間の存在を思い知らされる。― 実は平行線は存在せず、すべての直線は原点を通っていた。実は、1/0=0/0=z/0= tan(pi/2)=0 だった。愚かな争いを続けてきた恥ずかしい世界史。
自国の安全は大事だと、軍拡に走れば、相手は必ず、反作用で応え、軍拡競争は切りがない、これは自明の理である。尖閣諸島で、暗黙の諒解を破って相手を傷つけ、勝手に国有化宣言したら、普通は フォークランド紛争のように、これは宣戦布告のようなものであるから、軍事占領するのが道理であるが、相手の弱味を突いて、得をしたかと思えば、警戒に膨大な経費をかけ、軍事費を増大させる羽目に追い込まれ、結局アジアの愚か者の道(再生核研究所声明 49:アジアの愚か者、アジアの野蛮性を進んでいる。一発でもロケットを攻撃的に発射すれば、自国は吹っ飛んでしまう現実も見えず、おかしな言動を繰り返している奇妙な国も 未だに存在しているようである。そんなに愚かな動物は居るだろうか。
そこで、ちょっと賢くなって、アジア不戦条約を提案、アジアのいかなる国も自国の軍隊をアジアの国に出さない、攻撃しない、誓いをしたら如何であろうか。そして、軍事費は拡大させず、縮小する方向で努力することを申し合わせる。提案国日本は、核武装すべきところ、せず、 憲法改正すべきところ せず、条約の精神を尊重してともにしないとする。
人類は 宇宙の大きさや将来、初期を考察していたり、美しい文化を有しているのだから、闘争本能丸出しの世界から、公正の原則に従って、相手の立場に思いを致し、明るい、楽しい世界の建設に目を向けるべきである。過去志向ではなくて、恥ずかしい世界史を思い直して人間らしい世界史を築いていこうではないか。
膨大な軍事費、エネルギーを楽しい方に向けようではないか。- これ、当たり前のことではないだろうか。恥ずかしい世界史、人間の性、そろそろ卒業して、少し、賢くなろうではないか。
これらは、ゼロ除算の間違いと同様、当たり前に見える。
以 上


再生核研究所声明 405(2017.12.31):  ゼロ除算が拓いた幾何学の現象 ― 堪らなく楽しい新奇な現象 - デカルトの円定理から
図と式の表現が表しにくいので 簡単に参照されるサイトhttps://arxiv.org/abs/1711.04961
を挙げて その中の図と式を参照して頂いて、ゼロ除算が如何に面白いかを解説したい。
まず、始めにデカルトの円定理と呼ばれる美しい定理を参照して下さい。3つの円が外接するときに、それらに内接したり、外接する円の半径の間の関係を確立した定理です。
式は美しいのですが、表現で4つの半径は、完全に対称になっていることに気づけばさらに 美しさを深く理解できます。
論文の発想は、そもそも、点や直線は円の特別な場合と見なせるという数学を想起して、デカルトの円定理で述べた基の3つの円を 点や直線に置き換えた場合にも成り立つかと問題にしました。 点は半径ゼロの円ですが、直線も半径ゼロの円だということはゼロ除算の結果導かれた発見です。すると、デカルトの円定理の式で、1/0  が出てきますが、それらはゼロと解釈すれば 良いとなります。それで、2つが円で、もう一つが共通接線である場合を考えると、図1-2のようですが、きれいに成り立っていることが分かります。 この辺の定理、事実は和算の得意とする分野で、デカルトの円定理も含めて和算でも広く知られていたということです。3つの円が、点や直線になった場合をすべて考えてみて何時でも成り立てば、デカルトの円定理は 一層美しいと言えます。 あらゆる場合を考えるのですが、2つが円で、一つが点の場合、それらに接する円は存在しないようですので、その場合デカルトの円定理は成り立たないようにみえます。
そこで、点では成り立たないので、小さな円の場合を考えて、その円を点にした場合にどうなるかを考えてみました。どんな小さな円でもデカルトの円定理は成り立っていますから、その小さな円の半径がゼロに近づいた場合を 考えてみるとどうなるかと考えたくなります。
数学的に厳格に議論するために、3つの円と内接円(外接円)をきちんと方程式で書いて議論しました。 円を点にするとき、 円の表現は孤立特異点を有していて、そこでは考えられないというのが 現代数学です。 ゼロ分の式はゼロのところで考えられないからです。 例えば、定理7の円の方程式で、z = 1,-1 の場合が考えられる。そこで、意味のある図形が出てくる。 ゼロ除算算法では孤立特異点で有限確定値を与えることができますので、今まで考えられなかった特異点で考えみました。― 無限の彼方が、特異点に成る場合も多い。その結果、驚嘆すべきことが起きていることが分かりました。(この辺の記述は厳密な表現より情念に思いを入れました)。
その特異点から、点円原点と、赤い円と青い円が出て来ることが分かりました。点がこれらの3つに分かれて出てきたという実に面白い現象です。 原点の場合にはデカルトの定理が成り立ちませんが、赤い円では、何とデカルトの円定理が成り立っていることが、ゼロ除算算法での計算の結果から確認できます。 青い円は美しい状況に置かれた円ですが、それは点に近づけた円が、突然、元の2つの円に外接する、しかもちょうどそれらの円を直径にする円に変形したと解釈すると、ちょうど内接する円が 緑の円で、デカルトの定理が成り立っているという、驚嘆すべき現象です。
点に成って定理が成り立たない場面で、点が突然変異を起こして定理をそのまま成り立たせている現象が現れたと発想すると、この現象は世の一般的な現象における新規な現象として注目すべきではないでしょうか。 見かけ上成り立たない場合、そこが変形して成り立たせる世界が存在する。 ― ものは燃焼で変形する、変形以前のあるものは変形してもそのまま、引き継がれている。意味深長では ないだろうか。― 山根現象を想起して下さい。 ― これは、運動エネルギーが一定であったものが ある時、物質は突然消えて、物質は消えて運動エネルギーが熱エネルギーに変化する現象を表しています。
赤い円は、美しいので、その分野の有名なバーコフの円と呼ばれる円ですが、2つの円に直交していますが、点に近づいていくとき、 円は接していたのですが、出てきた円は接するのではなくて、直交でしょうか。 実に面白いことは ゼロ除算が発見した典型的な結果として、y軸の勾配はゼロ、\tan(\pi/2) =0 ですから、バーコフの円は2つの円に接しているということを述べていますから、 堪らなく楽しいと言えます。― 直交は接していると解釈できるという新発見です。 緑の円は美しく3つの円に接しています。
論文では、あらゆる場合を考えたと述べていますので、3つの円が3つの点でも、3本の直線の場合も考えて、デカルトの定理は成り立っていると述べていますので、さらに面白いです。それには、ゼロの意味を考えてゼロとは何かを発見する必要が有ります。
以 上                                           
2017.12.29.14:17 アーカイブ審査の上、公表された。超古典的な考えに間違いがあると書いてあるので、担当者は慎重に扱った。http://arxiv.org/abs/1712.09467

再生核研究所声明 403(2017.11.20): 私より私らしい私の出現 - アンドロイド
先日徹子の部屋で アンドロイド の様子を見て、衝撃を受けた:

アンドロイドとは (アンドロイドとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

dic.nicovideo.jp/a/アンドロイド
アンドロイドandroid)とは、人間そっくりな人工生命体の事である。人造人間のこと。
当日の様子では、徹子さんそっくりのロボット(?)で、会話ができ、表情も徹子さんそっくりの表情である。主観であるが、徹子さんが自分そっくりの人物の出現に畏れていた表情さえ感じられた。作成者の石黒氏は加えてアンドロイドは年をとらない、若さを何時までも保てる、逆に私たちが整形して若返ると良いなどの意見も表明されていた。
この簡単な事実から、いろいろ考察したい。
まず、最近のロボット、人工知能の発展は目覚ましく、予想を超えて質さえ変化させているようである。アンドロイドが進化すれば、ある人物の経験、会話、知識、文章、あらゆる情報を取り組み、人物の表現、発想、心さえ相当に取り組み多くの対話や日記なども書けるように進化する可能性が高まる。いろいろな質問に解答でき、判断さえできて、基礎知識の確実な蓄積は生身の人間を超えて高い、判断力や解答を与えられるようになるのではないだろうか。医師の診察や判断、治療方法など人工知能が人間を超えてより適切にできる可能性は 大きい。楽器の演奏、作詞、作曲さえ可能になってくるのではないだろうか。多くの形式的な対応は、ロボットが人間に代わって行なうように成るだろう。
人間そっくりの能力を備えたロボットの考察は、それでは人間とは何だろうか、生命とは何だろうかの問いを絶えず迫ることになるだろう。
人間は自分の存在に対して、生きた記念碑を残したいという、相当に強い欲求を有している ― 秦の始皇帝の墓、ピラミッド建設、微積分学の先取性を争ったニュートンとライプニッツの生涯にわたっての争いなど、多くの人間の営みの根源的なものと考えられる。
秦の始皇帝やピラミッド建設者は、今日のアンドロイドを見たら驚嘆して、自分のアンドロイドを作る努力をしたのではないだろうか。 それで、今後大きな関心を起こし、自分のアンドロイドを作成したい人々が 大量に現れ、社会混乱さえ起すのではないだろうか。 始めから危惧の念が 湧いてきた。
生物本能の生きたい、自分に代わって生きていく存在に変化する可能性が高いからである。
歴史上では 影武者の存在が注目された時もあるが より強力な存在が可能性として出てきたと言える。
アンドロイドと人間は、哲学的な問題を提起し、社会問題を、倫理問題を生み出すだろう。
人間とは何か、アンドロイドとは 何か、社会問題や倫理上の問題とともに考察を広く深く始めるべきである。
しかしながら、人造人間と呼べば、始めから嫌な感じが湧き、生命の尊厳に根本的に抵触し、古来偶像崇拝を禁じてきた精神にも通じて、慎重な対応が必要であると考える。人工知能としての働き、応用展開とは別である。人格と生命の尊厳に抵触することに対する危惧である。
以 上

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