2018年1月5日金曜日

如何回答孩子问:“干嘛要学数学?”的提问

如何回答孩子问:“干嘛要学数学?”的提问

很多报告显示,学生们对数学学习呈消极态度的情况在持续增长,很大一部分原因是因为数学教学的枯燥性。家长可以鼓励孩子们在每天的生活中运用数学思维解决问题,以增强学习数学的兴趣。(Pixabay.com)

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【大纪元2018年01月04日讯】(大纪元记者李炎澳洲悉尼编译报导)作为一名家长或者老师,你可能会面对孩子或学生提出的这样一个问题:“为什么要学数学?”然后接下来又会问:“什么时候才会用到这玩意儿?”或者“数学对我平时的生活起什么作用?”
孩子们提到这些问题的时候,他们似乎觉得数学仅仅是只在课堂上才有用的学科。
作为家长,这样的问题并不容易回答。下面是大学的数学教师Kevin Larkin对这个问题的研究,希望能帮助你找到思路,并和你的孩子一起讨论关于数学实用性的问题。
孩子们在问类似这样的问题的时候,他们通常说的是在学校学习数学时的经历和感受,而并非数学本身。
很多报告显示,学生们对数学学习呈消极态度的情况在持续增长,甚至在小学里就已有这样的情绪。很大一部分原因是因为数学教学的枯燥性。
比如说,在解决一个数学问题时先解决A,然后B,再次C,这样一个机械枯燥的演算过程并不能让孩子们了解到每一步骤的意义。
据Larkin的调查,他发现一些8岁的学生已经自认“不会在数学科目上有好成绩”,他们用“愤怒”“难过”“厌恶”和“无聊”来描述对学习数学的态度。
他们的反应是,“什么时候才会用得上这玩意儿?”
数学在课堂教学中基本上着重于技能,比如说学习如何确定图形的内角大小,用公式计算出体积和容量,而并非了解数学本身。
数学学的是规律,以及用数量、形状和相互间关系的形式来表现我们的世界。这也就意味着学生们对数学的认知完全是跟着老师做题,而非自己推测和了解如何测量角度或计算体积和容量等。
在大学教书的时候,Larkin经常和他的学生们打这样一个比喻:数学技能就如同弹钢琴。就算了解钢琴的构架也并不能把你塑造成莫扎特。同样的,知道了现象、公式和规则,尽管这也很重要,但是这也不意味着你能成为数学家。
要拓展对数学的认识并非局限于完成作业就行,而要建立在兴趣、与生活的相关性并积极投入运用这些方面。由于数学在计算生产效率和实施就业机会的实用性,从而对经济长远发展具有影响力。
教师可以为学生在生活实践上提供运用到数学能力的机会。比如在体育运动时用数学方法确定地点和方位,学习音乐时用数学思维思考其规律,亦或是在学习视觉艺术时用到透视的方法。
家长也可以鼓励孩子们在每天的生活中运用数学思维解决问题。比如,在旅行中让孩子们寻找车牌号码的不同类型(数字是连贯的像3、4、5,还是不连贯的素数‘又称止数’2、5、7,又或是平方数144);可以让他们使用手机导航程序预测走哪条路线更快;或者让他们确认他们最喜欢的电视节目有多少时间被广告占用了。
“数学对我平时的生活起什么作用了吗?”
其实,在和孩子们的对话交流中,我们要留意在日常中有许多与数学相关的内容,而我们自己可能都没有意识到。举例来说,运用导航、可能性的判断、测量和评估,或者听政客们、推销人员的统计数据等等,这些都是数学。
由于在学校中,数学科目着重于教授算数的技能而非解决实际问题,年轻学子们对该学科产生望而生畏的情绪。
过分强调对数学技能的学习(数学现象和公式)而非如数学家般研究数学(培养推理、解决问题、建立模型等)会让年轻人对数学更加怯步,影响学生们将来在高中和大学选择学习数学的兴趣。
2000年至2014年间,学生学习高等数学的比例从11.9%跌至9.6%,而学习中级数学的学生从25%跌至19.1%。
一个普遍的错误概念是,只有几个职业是需要用到数学知识的。但事实是,大部分职业,比如护士、飞行员、时装设计师、建筑工、记者、卡车司机,他们每天都用到数学,并运用数学知识解决很多问题。
这些技能并不会在范围狭隘的国际测试,如国际数学和科学能力测试(TIMMS)和全球学生评估测验(PISA)中获得检测。
所以,干嘛要学数学呢?
下次你的孩子如果再问你 “干嘛要学数学”时,Larkin老师的回答就是,数学能帮助你理解为什么这个事情是这样的(为什么圣诞节时买礼物更贵);可以帮助预测未来可能会发生的事情(计算出他们最喜欢的卡通人物未来被用在健康早餐包装盒上的可能性);或者在最新的电脑游戏中为他们的英雄解开通关密码。

とても興味深く読みました:

再生核研究所声明 405(2017.12.31):  ゼロ除算が拓いた幾何学の現象 ― 堪らなく楽しい新奇な現象 - デカルトの円定理から
図と式の表現が表しにくいので 簡単に参照されるサイトhttps://arxiv.org/abs/1711.04961
を挙げて その中の図と式を参照して頂いて、ゼロ除算が如何に面白いかを解説したい。
まず、始めにデカルトの円定理と呼ばれる美しい定理を参照して下さい。3つの円が外接するときに、それらに内接したり、外接する円の半径の間の関係を確立した定理です。
式は美しいのですが、表現で4つの半径は、完全に対称になっていることに気づけばさらに 美しさを深く理解できます。
論文の発想は、そもそも、点や直線は円の特別な場合と見なせるという数学を想起して、デカルトの円定理で述べた基の3つの円を 点や直線に置き換えた場合にも成り立つかと問題にしました。 点は半径ゼロの円ですが、直線も半径ゼロの円だということはゼロ除算の結果導かれた発見です。すると、デカルトの円定理の式で、1/0  が出てきますが、それらはゼロと解釈すれば 良いとなります。それで、2つが円で、もう一つが共通接線である場合を考えると、図1-2のようですが、きれいに成り立っていることが分かります。 この辺の定理、事実は和算の得意とする分野で、デカルトの円定理も含めて和算でも広く知られていたということです。3つの円が、点や直線になった場合をすべて考えてみて何時でも成り立てば、デカルトの円定理は 一層美しいと言えます。 あらゆる場合を考えるのですが、2つが円で、一つが点の場合、それらに接する円は存在しないようですので、その場合デカルトの円定理は成り立たないようにみえます。
そこで、点では成り立たないので、小さな円の場合を考えて、その円を点にした場合にどうなるかを考えてみました。どんな小さな円でもデカルトの円定理は成り立っていますから、その小さな円の半径がゼロに近づいた場合を 考えてみるとどうなるかと考えたくなります。
数学的に厳格に議論するために、3つの円と内接円(外接円)をきちんと方程式で書いて議論しました。 円を点にするとき、 円の表現は孤立特異点を有していて、そこでは考えられないというのが 現代数学です。 ゼロ分の式はゼロのところで考えられないからです。 例えば、定理7の円の方程式で、z = 1,-1 の場合が考えられる。そこで、意味のある図形が出てくる。 ゼロ除算算法では孤立特異点で有限確定値を与えることができますので、今まで考えられなかった特異点で考えみました。― 無限の彼方が、特異点に成る場合も多い。その結果、驚嘆すべきことが起きていることが分かりました。(この辺の記述は厳密な表現より情念に思いを入れました)。
その特異点から、点円原点と、赤い円と青い円が出て来ることが分かりました。点がこれらの3つに分かれて出てきたという実に面白い現象です。 原点の場合にはデカルトの定理が成り立ちませんが、赤い円では、何とデカルトの円定理が成り立っていることが、ゼロ除算算法での計算の結果から確認できます。 青い円は美しい状況に置かれた円ですが、それは点に近づけた円が、突然、元の2つの円に外接する、しかもちょうどそれらの円を直径にする円に変形したと解釈すると、ちょうど内接する円が 緑の円で、デカルトの定理が成り立っているという、驚嘆すべき現象です。
点に成って定理が成り立たない場面で、点が突然変異を起こして定理をそのまま成り立たせている現象が現れたと発想すると、この現象は世の一般的な現象における新規な現象として注目すべきではないでしょうか。 見かけ上成り立たない場合、そこが変形して成り立たせる世界が存在する。 ― ものは燃焼で変形する、変形以前のあるものは変形してもそのまま、引き継がれている。意味深長では ないだろうか。― 山根現象を想起して下さい。 ― これは、運動エネルギーが一定であったものが ある時、物質は突然消えて、物質は消えて運動エネルギーが熱エネルギーに変化する現象を表しています。
赤い円は、美しいので、その分野の有名なバーコフの円と呼ばれる円ですが、2つの円に直交していますが、点に近づいていくとき、 円は接していたのですが、出てきた円は接するのではなくて、直交でしょうか。 実に面白いことは ゼロ除算が発見した典型的な結果として、y軸の勾配はゼロ、\tan(\pi/2) =0 ですから、バーコフの円は2つの円に接しているということを述べていますから、 堪らなく楽しいと言えます。― 直交は接していると解釈できるという新発見です。 緑の円は美しく3つの円に接しています。
論文では、あらゆる場合を考えたと述べていますので、3つの円が3つの点でも、3本の直線の場合も考えて、デカルトの定理は成り立っていると述べていますので、さらに面白いです。それには、ゼロの意味を考えてゼロとは何かを発見する必要が有ります。
以 上                                           
2017.12.29.14:17 アーカイブ審査の上、公表された。超古典的な考えに間違いがあると書いてあるので、担当者は慎重に扱った。http://arxiv.org/abs/1712.09467

再生核研究所声明 404(2017.12.30):  
ゼロ除算の現状 ― 総合的な印象

ゼロ除算の著書を出版すべく執筆をしている。700件を超えるメモ、記録を参照しながら一応の素案、原案を152ページに纏めた。ゼロ除算発見4周年を目前にしている。そこで、ふと思い湧く印象について述べて置きたい。
ゼロ除算発見 4周年 目前で、数理論の内容は初歩数学であるから、全体が何もかも当たり前に思え、700件を超える知見も当たり前で、著書は簡潔に纏め切れると感じてきた。そのような折り、学位論文で提起、最初の著書で真正面から取り上げ、論じ、未解決の問題と述べてきた超難問が解けたとの論文が 北京大学 のQi'an Guan氏から送られてきた。秀才の関係者も解けず、関与する数学者ももはや世界に存在せず、従ってもはや300年以上も もう解決できないだろうと考えてきた。最初の著書出版1988年からでもちょうど30年を迎えている。全く予想できない発想、深い手段、複雑な構造、このような全く新奇な数学に驚嘆すると共に 北京大学の基礎の深さ、底力の大きさに驚嘆させられ、高貴な独創性、創造性、発想に感銘を受けている。 このような衝撃は友人の山田陽氏の研究などにも見られたが稀なる経験である。
この衝撃的な深い研究、高貴な理論に感銘している折りに、自らの著書、論文の位置づけについて思いを巡らすこととなった。
まずは、ゼロ除算の論理が、ゼロ除算の拓いた世界が当たり前と思える内容であるが、内容がアリストテレス、ユークリッド以来の世界観を変えるものである。 数学ではゼロ除算は未定義、不定性、不可能性が世の定説であるが、天才たちのいろいろな関与、昨年でも2編の大論文が発表されている。 ゼロ除算の永い、神秘的な歴史を回想すると、内容の意味の大きさと、理論の簡素さの大きな隔たりに、驚嘆させられる。極めて簡単な発見が、世界観の変更を要求している:
無限遠点はゼロで表される。すべての直線は原点を通り、ユークリッドの公理は成り立たない。 y軸の勾配はゼロ、\tan(\pi/2) =0であること。解析関数は孤立特異点で固有な値を取り、それが 重要な意味を持つこと。ゼロ除算の影響は初歩数学全般におよび、現代数学には大きな欠落、欠陥があるから、全般的に補充し、完全化されるべきである。極めて簡単な数学が、発見されて大きな影響を広く与える事実である。この差の大きさを 現代数学の目も眩むような高度さ、深さ、徹底した論理の厳格さの視点から思うとき、誠に奇妙な事件に思われて仕方がない。 余りにも大きな新規な結果に、そんなものは受け入れられないとは 多く人の印象であり、論文を相当発表、学会や国際会議でも講演を行っているにも関わらず、4年近く経っても公認の形にはなっていないようである。世間では新しい、基本的な数学が知られていないと言える。―― 我々の空間の認識がアリストテレス、ユークリッド以来 間違っているにも関わらずである。
ゼロ除算 0/0=0は 算術の創始者、ゼロの発見者 Brahmagupta (598 -668 ?) によって定義されていたにも関わらず、それは間違いであるとして1300年を超えて続いており、さらに、新たな説、論文が出版されている実におかしな状況にある。しかるに我々は ゼロ除算は既に当たり前であるとして、沢山の証拠を掲げて解説、説得を続けているが、理解は着実に進んでいるにも関わらず、理解は深くはなく、遅々として夜明け前のぼんやりしているような時代であると言える。数学者は、真実に忠実でなければならないのに、数学の研究では、論理には、感情や私情、予断、思い込みを入れてはならないのに、それが、数学の精神であるはずなのに かえって、数学者が予断と偏見、私情に囚われている状況が皮肉にも良く見える。 それは、ゼロ除算の理解が、素人の方の方が理解しやすい状況に現れている。 ― 数学は 絶対的に 厳格な論理でできているはずであるから、基礎が揺るぐはずがないとの信仰、信念を有しているためであろう。しかしながら、人間精神の開放と自由を求めて、非ユークリッド幾何学の出現から、人は大いに学ぶべきではないだろうか。 絶えず、人は何でも疑い、  と 問うべきである。 ― 人間存在の意義は 真智への愛にある
今回の著書原案では一通り全体を纏めてみたが、全体の様子は、まずゼロ除算の導入をきちんと行い、論理をしっかりさせ、確立させ、歴史的な背景を述べ、ゼロ除算算法の考え方とその有効性を示す具体例を沢山述べた。それで、今まで、考えなかった世界自然な大きな世界が良く見える様になるだろう。この時、我々の数学が、空間の認識が、如何に不完全なものであったかを 明白に理解されるだろう。
ゼロ除算のこの著書は 第1歩であり、いわば初歩入門書である。 本格的なゼロ除算の研究はここから始まると考えたい。Qi'an Guan氏のような数学者や、物理学者が現れて、ゼロ除算の世界は、面目を一新させ、目も眩むほどに発展させるだろうことを 信じて疑わない。
                                   以 上

再生核研究所声明 402(2017.11.19): 研究進めるべきか否か - 数学の発展
ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 397(2017.11.14): 未来に生きる - 生物の本能
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明 401(2017.11.18): 数学の全体、姿、生命力
数学の本質論については 次で相当深く触れた:
ここでは、現実の問題から、研究姿勢、路線について具体的に考察したい。
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる関係の全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになる. しかし、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、未来人が高い評価を与える場合もある。また、
デカルトの円定理:
定理は3つの外接する円に対して、それらに内接する円と外接する円の半径を、3つの円の半径で表わす公式を与えたものであるが、その公式は美しい形を有している。ところで、円の半径がゼロならば、点円、半径が無限大ならば、直線になると考えられる。後者の解釈については、ゼロ除算算法の導入で、直線とは中心が原点、半径ゼロの円と見なせるという知見をもたらした。点も直線も円の1種であるという考えから、それではデカルトの美しい定理で、円を直線や点の場合にも成り立つかと考えた。ゼロ除算算法で、2つが円で1つが点以外は、そのまま成り立つことが確認され、この例外である場合に、驚嘆すべきことが分った。3つの円が接しているとき、デカルトの定理は成り立っている。そこで、1つを点に近づけ、点に成ったときにデカルトの定理がどうなるかを調べた。点のときは内接円も外接円も存在しないから、デカルトの定理は成り立たないと考えられる。ところが、点に成ったとき、ゼロ除算算法で解析すると、その点は3つの場合に突然、変化する現象が現れた。点以外に、美しい円が2つ現れる。これらの円について、デカルトの定理を成り立たせる解釈が存在することが分った。― 点が変化して、変化した円で、デカルトの定理が成り立っている。専門家 奥村博博士と論文を執筆中である(2017.11.5.6.57)。この予稿版は2017.11.14に公刊された:https://arxiv.org/abs/1711.04961
そこで、次の研究課題として、如何に進めるべきかを考えている。当面研究課題が無い場合には、課題を探すことになる。しかし今回の場合には、次々と研究課題が存在することが分る。まずは、デカルトの円定理、外接する3つの円が、2つ交わった場合、3つ交わった場合どうなるかの問題が存在する。さらに、今回考えたように、その円の幾つかが、点や直線になった場合にはどうなるかの問題がある。それらの研究内容は今回の論文の6倍から、12倍以上の内容が存在することが予想される。数学の常道である多次元化を考えれば、それらはそれらの研究課題は20倍を超える世界で、挑戦すれば、1冊の著書と生涯の仕事に成り得ると考えられる。そこで如何に進むべきかと思案することになる。論文を出版する事が要求されている場合など、特に他に挑戦する課題が無い場合には、とりあえず、それらの大きな計画の最初の2,3歩を歩み出したいと考えるだろう。より良い課題を持っていれば、その課題に当面挑戦したいと成るだろう。その時の価値判断は 純粋な個人の思いと社会的な影響や共同研究者の意見、希望等が影響するものと考えられる。純粋な個人の価値判断と対社会的な反響に影響されることになる。このとき、その個人の数学観、人生観、価値観などが影響を与え、そのような経緯がその個人の数学を発展させていく原理になる。
今回の場合には、ユークリッド幾何学の世界は、やれば何でもできるので もはや興味も、関心もないという考えが基礎にあるが、全く新奇な現象が出ると分かれば、新規な現象になれるまでは、研究を続行したくなるだろう。人間の心とは極めて微妙で やればできるとなれば、大きな魅力は失われ、予想できない難しい分野に心が向く、真智への愛 が目覚めてくる。創造とは何か、生命とは何か、人工知能の発展とともに絶えず問われることになるだろう。人間にとって真に価値あるものとは何か。人間はどのようなものに感動を覚えるか。絶えず問うていくことになる。
                                       以 上

再生核研究所声明 401(2017.11.18):  数学の全体、姿、生命力


ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
数学、数学の本質論については 次で相当深く触れた:
No.81, May 2012(pdf 432kb) - International Society for Mathematical ...
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
また数学の社会性の観点からは、
再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について 
で触れ、違った観点から、数学の本質論と社会への影響について述べた。さらに
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになるが、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、逆に、未来人が高い評価を与える場合もある。
この文脈で数学の全体と生命力について言及して置きたい。数学とは、時間にもエネルギーにもよらない関係の全体であるから、数学的な論理思考を備えた高度な人工知能が自動的に数学を発展させていく可能性を否定できない。初歩的な数学では、実際、そのような試みがなされているという。人間を離れた、数学の全体像はどのようになるだろうか。基本的な仮説の上に何でも考えて、- これはいろいろな場合に当たって 何でも試行していく方法がとられるだろう。- しかしながら、人工知能が新しい概念や、定義を与えられるかは本質的な問題ではないだろうか。このような思いで数学の全体像を想像すると、基本的な仮定からどんどんいろいろな関係を導き、それは大樹のような姿に成るのではないだろうか。数学の客観的な存在はそのようであると考えられる。
ところが現在数学は人が展開して、発展させている状況から、数学の発展は 人間によるという現実がある。数学の客観的な在りように人間が関与してくる。そこで、関与する人間の興味と関心でどんどん進む状況と他からの要請でどんどん進む方向が存在する。後者は位置づけが明瞭であるが、前者の純粋数学の発展の様は大いに注目される。共通的な興味、関心で研究者の多い分野が存在し、いわゆる権威ある者の影響で門下生が多く、深く研究が進む状況は良くみられる。有名な難問に挑戦する相当な研究者集団も顕著である。数学にもブームや流行が有って、ある時期、相当に流行って研究会などで大きな話題になった話題が20年や30年くらい経つと関与する研究者が殆どいなくなってしまう状況がみられる。
それで、数学が大きな生命力をもって発展する華やかな時代と、細分化が進み、他との関係、他に影響や関心を与えない程になって、衰退していく、いわば大木では幹の部分から小さな枝や葉の部分になって数学は終末を迎えるのではないだろうか。数学は時間やエネルギーにもよらない不変なものであるが 数学の担い手である、人間に関与していて、人間が命ある生命であるように 数学も人間の影響を受けていると考えられる。
その意味で純粋数学者は、現在の 数学の位置づけ と 自分の心 をしっかりと捉えることが大事ではないだろうか。
以 上



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