2018年1月4日木曜日

日本最初の「元旦」と結びつく「神武天皇」の正体

日本最初の「元旦」と結びつく「神武天皇」の正体

 
日本史上「最古の元旦」の記録は、神武天皇(神日本磐余彦=かむやまといわれびこ=)の即位にまつわる『日本書紀』の記事だ。「辛酉年(しんいうのとし、西暦紀元前660年)」に畝傍山(うねびやま、橿原市)の東南の麓に橿原宮(かしはらのみや)を建て、王位に就いたのだ。「辛酉」は1260年に1回めぐってくる特別な年で、中国の讖緯説(しんいせつ)によれば、革命的事件が起きるとされている。だから『日本書紀』編者は、初代神武天皇の即位年にふさわしいと考えたのだろう。

 そこで今回は、神武天皇の即位に注目してみよう。


■神武天皇と「九州の海人」

 近年、神武天皇は次第に軽視されるようになってきたと思う。まず、今から2600年以上も前に即位したという『日本書紀』の話は、明らかな作り話だ。弥生時代(あるいは縄文時代)に国の中心がヤマトに存在したはずがない。

 一方考古学の進展によって、ヤマト建国の詳細が分かりはじめてくると、神武の謎はむしろ深まった。三輪山(奈良県桜井市)山麓の扇状地に、3世紀から4世紀にかけて、政治と宗教に特化された都市・纒向(まきむく)遺跡が出現していて、ここにヤマトが建国されていたことが分かってきたが、そうなると「神武天皇は橿原に宮を建てた」という『日本書紀』の設定にも、疑念が湧いてくる。実在の初代王は第10代崇神天皇で、神武と崇神は同一人物と通説は言うが、それならなぜ、神武は崇神と同じように、盆地の東南部、纒向遺跡の近くに宮を建てなかったのだろう。

 それだけではない。天皇家が九州からやってきたという話も、ここに来て疑わしくなってきた。ヤマト建国黎明期の纒向遺跡に集まってきた土器は、東海地方や近畿地方のものが大半で、九州のものは、ほとんど含まれていなかったからだ。

 また、ヤマト建国の前後、近畿地方や山陰地方から多くの人々が九州に流れ込んでいたことも分かっている。だから、「邪馬台国は北部九州にあって、それが東に移ってヤマトは建国された」というかつての常識は通用しなくなったのだ。そうなると、ますますもって、「九州からやってきた神武」は、影が薄くなる。

 しかし、神武の存在を否定してかかることもできない。神武が創作とすると、かえって分からなくなることがある。

 たとえば神武天皇のまわりに「九州の人脈」が集まっていたという謎がある。

 連載の中で紹介してきたように、神武天皇の母と祖母は姉妹で、海神(わたつみ)の娘だったが、彼女たちは奴国(なこく、福岡市)の阿曇(あずみ)氏と縁が深い。また、橿原宮の周辺を固めていた大伴氏、久米氏、忌部(いんべ)氏たちは、九州の海人(あま)の末裔だったようで、顔に入れ墨をしていたという記事が、『日本書紀』にある。「魏志倭人伝」には、九州の海人が水に潜ってアワビなどを捕っていること、入れ墨をして大きな魚(サメなど)から身を守っていると記録されている。南方の習俗が縄文時代に日本に伝わっていたと思われる。この海人の風習を受け継いだ人たちが、なぜか橿原宮のまわりに集住していたことになる。これは何だろう。

 畝傍山が天皇と強くつながっていたことは、中大兄皇子の大和三山の歌(『万葉集』巻1-13)からも分かる。

「畝傍山が雄々しいので、耳成山と天香具山がキサキの地位をめぐって争っている。神代からすでにそうだったという」

 とあり(異なる解釈もあるが、割愛する)、畝傍山は男王を象徴していたことになる。それはなぜかと言えば、「初代王が畝傍山麓で暮らしていた」という伝説が生きていたからではなかろうか。


■「祟る神」を祀る役割

 ここで仮説を掲げておこう。

 神武と崇神は同一人物ではなく、同時代人ではなかったか。崇神天皇はやむにやまれぬ事情から、神武を九州から招き寄せて、祭司王に立てた――。

 なぜこう考えるか、説明していこう。

『日本書紀』崇神5年条に興味深い記事が載る。国内で疫病が蔓延し、半数の人びとが亡くなったというのだ。天然痘ならば、現代でも致死率は20~50%に上るから、あながちデタラメとも言い切れまい。困り果てた崇神天皇は占いをしてみた。すると神の意志(祟り)と知らされた。そして、神は「私の子に私を祀らせれば」と言うので、命じられたままに、神の子・大田田根子(おおたたねこ)を探し出して神を祀らせた。こうして、世は平静を取り戻したのである。

 この、大田田根子が怪しい。大田田根子と神武は重なって見える。どちらも「両親が神」なのだ。それだけならまだしも、大田田根子の母は活玉依媛(いくたまよりひめ)で、神武天皇の母の名は玉依姫(たまよりひめ)と、ふたりの母はそっくりではないか。大田田根子も神武も、祟る神(疫神)を祀る役割を期待されたのではなかったか。

 神の祟りなど歴史ではないと史学者は無視してきた。しかし、疫神に対する古代人の恐怖心とその伝承を軽視してはならない。


■疫神を追い払った記念日

 ここで改めて注目されるのが、「なぜ神武は纒向ではなく橿原に宮を建てたのか」、あるいは「なぜそう語り継がれていたのか」である。

 縄文時代から弥生時代への移行期、橿原遺跡(橿原市)に東北地方で盛行していたはずの土偶が集まっていた。どうやら、西から東漸してくる稲作文化をはね返す呪術を、ここで執り行っていたようなのだ。

 稲作を拒むのに、なぜまじないが必要だったのだろう。稲作民との交流によって天然痘などの未知の疫病がもたらされたからではあるまいか。

 奈良時代もそうだが、天然痘の大流行は、北部九州から始まり、東に移っていった。だから、縄文人たちは、稲作とともにやってきた疫病におびえ、奈良盆地の西側の橿原で、呪術を執り行っていたのだろう。

 崇神天皇の時代、神の祟りを鎮めるために、「活玉依媛」の子・大田田根子が連れて来られたと『日本書紀』は言うが、これは実際には「玉依姫」の子の神武天皇で、この人物でなければならなかった理由があったはずなのだ。

 ヤマト建国前後の人の流れは、これまでの常識とは逆に「東から西」で、しかも北部九州の防衛上のアキレス腱である大分県日田市と福岡平野(奴国)に東側から多くの人が入植していたことが分かっている。弥生時代後期の北部九州は大量の鉄器をほぼ独占していたが、ヤマトはこの鉄と朝鮮半島につながる流通ルートを確保しようと押し寄せたのだろう。そしてこの時、敗れた北部九州の貴種たちは、海人たちの伝手(つて)を頼って、南部九州に逃れ、これがのちに天孫降臨神話に化けたのだと思う。高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の県境の高千穂峰と宮崎県西臼杵郡高千穂町の2説あり)に天から舞い降りたという設定は作り話だろうから、次の一歩が大切だ。それが鹿児島県の笠狭碕(野間岬)で、ここに西九州の海人たちが、導いたのだろう。そして、南部九州の地で敗北者たちはヤマトを恨んだにちがいない。

 ヤマトにすれば、九州からやってくる疫病は、敗者の恨みと呪いそのものであって、だからこそ、南部九州に逃れた者の中から祭司王を連れてきて、これがヤマトの王家(天皇家)に育っていったのだと思う。

 神武が纒向ではなく、橿原に海人とともに陣取った理由は、これではっきりとわかると思う。神武は呪う敗者だったからこそ、ヤマトに連れて来られたのだ。

 日本最初の元旦は、疫神を追い払った記念日だったのかもしれない。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180104-00543183-fsight-soci
 
とても興味深く読みました:
 
再生核研究所声明255 (2015.11.3) 
神は、平均値として関数値を認識する

(2015.10.30.07:40 
朝食後 散歩中突然考えが閃いて、懸案の問題が解決した:
どうして、ゼロ除算では、ローラン展開の正則部の値が 極の値になるのか?
そして、一般に関数値とは何か 想いを巡らしていた。
解決は、驚く程 自分の愚かさを示していると呆れる。 解は 神は、平均値として関数値を認識すると纏められる。実際、解析関数の場合、上記孤立特異点での関数値は、正則の時と全く同じく コ-シーの積分表示で表されている。 解析関数ではコ-シーの積分表示で定義すれば、それは平均値になっており、この意味で考えれば、解析関数は孤立特異点でも 関数値は 拡張されることになる ― 原稿には書いてあるが、認識していなかった。
 連続関数などでも関数値の定義は そのまま成り立つ。平均値が定義されない場合には、いろいろな意味での平均値を考えれば良いとなる。解析関数の場合の微分値も同じように重み付き平均値の意味で、統一的に定義でき、拡張される。 いわゆるくりこみ理論で無限値(部)を避けて有限値を捉える操作は、この一般的な原理で捉えられるのではないだろうか。2015.10.30.08:25)
上記のようにメモを取ったのであるが、基本的な概念、関数値とは何かと問うたのである。関数値とは、関数の値のことで、数に数を対応させるとき、その対応を与えるのが関数でよく f  等で表され x 座標の点 x  をy 座標の点 yに対応させるのが関数 y = f(x) で、放物線を表す2次関数 y=x^2, 直角双曲線を表す分数関数 y=1/x 等が典型的な例である。ここでは 関数の値 f(x) とは何かと問うたものである。結論を端的に表現するために、関数y=1/xの原点x=0における値を問題にしよう。 このグラフを思い出して、多くの人は困惑するだろう。なぜならば、x が正の方からゼロに近づけば 正の無限に発散し、xが負の方からゼロに近づけば負の無限大に発散するからである。最近発見されたゼロ除算、ゼロで割ることは、その関数値をゼロと解釈すれば良いという簡単なことを言っていて、ゼロ除算はそれを定義とすれば、ゼロ除算は 現代数学の中で未知の世界を拓くと述べてきた。しかし、これは誰でも直感するように、値ゼロは、 原点の周りの値の平均値であることを知り、この定義は自然なものであると 発見初期から認識されてきた。ところが、他方、極めて具体的な解析関数 W = e^{1/z} = 1 + 1/z + 1/2!z^2 + 1/3!z^3 +……. の点 z=0 における値がゼロ除算の結果1であるという結果に接して、人は驚嘆したものと考えられる。複素解析学では、無限位数の極、無限遠点の値を取ると考えられてきたからである。しかしながら、上記の考え、平均値で考えれば、値1をとることが 明確に分かる。実際、原点のコーシー積分表示をこの関数に適用すれば、値1が出てくることが簡単に分かる。そもそも、コーシー積分表示とは 関数の積分路上(簡単に点の周りの円周上での、 小さな円の取り方によらずに定まる)で平均値を取っていることに気づけば良い。
そこで、一般に関数値とは、考えている点の周りの平均値で定義するという原理を考える。
解析関数では 平均値が上手く定義できるから、孤立特異点で、逆に平均値で定義して、関数を拡張できる。しかし、解析的に延長されているとは言えないことに注意して置きたい。 連続関数などは 平均値が定義できるので、関数値の概念は 今までの関数値と同じ意味を有する。関数族では 平均値が上手く定義できない場合もあるが、そのような場合には、平均値のいろいろな考え方によって、関数値の意味が異なると考えよう。この先に、各論の問題が派生する。

以 上


Reality of the Division by Zero $z/0=0$

 
 
再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日
                                                                                        
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf


再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告

http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0

ソクラテス・プラトン・アリストテレス その他


ゼロ除算の論文リスト:

List of division by zero:
L. P. Castro and S. Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$, Int. J. Appl. Math. {\bf 27} (2014), no 2, pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
T. Matsuura and S. Saitoh,
Matrices and division by zero z/0=0,
Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory, 2016, 6, 51-58
Published Online June 2016 in SciRes. http://www.scirp.org/journal/alamt
\\ http://dx.doi.org/10.4236/alamt.201....
T. Matsuura and S. Saitoh,
Division by zero calculus and singular integrals. (Differential and Difference Equations with Applications. Springer Proceedings in Mathematics \& Statistics.)
T. Matsuura, H. Michiwaki and S. Saitoh,
$\log 0= \log \infty =0$ and applications. (Submitted for publication).
H. Michiwaki, S. Saitoh and M.Yamada,
Reality of the division by zero $z/0=0$. IJAPM International J. of Applied Physics and Math. 6(2015), 1--8. http://www.ijapm.org/show-63-504-1....
H. Michiwaki, H. Okumura and S. Saitoh,
Division by Zero $z/0 = 0$ in Euclidean Spaces,
International Journal of Mathematics and Computation, 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
H. Okumura, S. Saitoh and T. Matsuura, Relations of $0$ and $\infty$,
Journal of Technology and Social Science (JTSS), 1(2017), 70-77.
S. Pinelas and S. Saitoh,
Division by zero calculus and differential equations. (Differential and Difference Equations with Applications. Springer Proceedings in Mathematics \& Statistics).
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. {\bf 4} (2014), no. 2, 87--95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
S. Saitoh, A reproducing kernel theory with some general applications,
Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and Applications - Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China, Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, {\bf 177}(2016), 151-182. (Springer) .


Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.

私は数学を信じない。 アルバート・アインシュタイン / I don't believe in mathematics. Albert Einstein→ゼロ除算ができなかったからではないでしょうか。

ドキュメンタリー 2017: 神の数式 第2回 宇宙はなぜ生まれたのか


〔NHKスペシャル〕神の数式 完全版 第3回 宇宙はなぜ始まったのか


NHKスペシャル〕神の数式 完全版 第1回 この世は何からできているのか

NHKスペシャル 神の数式 完全版 第4回 異次元宇宙は存在するか


ゼロ除算の論文

Mysterious Properties of the Point at Infinity

再生核研究所声明 394(2017.11.4):  ゼロで割れるか ― ゼロで割ったらユークリッド以来の新世界が現れた

ゼロで割る問題は、ゼロ除算は Brahmagupta (598 -668 ?)以来で、彼は Brhmasphuasiddhnta(628)で 0/0=0 と定義していた。ゼロ除算は古くから物理、哲学の問題とも絡み、アリストテレスはゼロ除算の不可能性を述べていたという。現在に至っても、アインシュタイン自身の深い関心とともに相対性理論との関連で相当研究がなされていて、他方、ゼロ除算の計算機障害の実害から、論理や計算機上のアルゴリズムの観点からも相当な研究が続けられている。さらに、数学界の定説、ゼロ除算の不可能性(不定性)に挑戦しようとする相当な素人の関心を集めている。現在に至ってもいろいろな説が存在し、また間違った意見が出回り世間では混乱している。しかるに、 我々は、ゼロ除算は自明であり、ゼロ除算算法とその応用が大事であると述べている。
まずゼロで割れるか否かの問題を論じるとき、その定義をしっかりすることが大事である。 定義をきちんとしないために空回りの議論をしている文献が大部分である。何十年も超えて空回りをしている者が多い。割れるとはどのような意味かと問題にしなければならない。 数学界の常識、割り算は掛け算の逆であり、az =b の解をb割るaと定義し、分数b/a を定義すると考えれば、直ちにa=0の場合には、一般に考えられないと結論される。それで、ゼロ除算は神でもできないとか神秘的な議論が世に氾濫している。しかしながら、この基本的な方程式の解が何時でも一意に存在するように定義するいろいろな考え方が存在する。有名で相当な歴史を有する考え方が、Moore-Penrose一般逆である。その解はa=0 のとき、ただ一つの解z=0 を定める。よって、この意味で方程式の解を定義すれば、ゼロ除算 b/0, b割るゼロはゼロであると言える。そこで、このような発想、定義は自然であるから、発見の動機、経緯は違うが、ゼロ除算は可能で、b/0=0 であると言明した。Moore-Penrose一般逆の自然性を認識して、ゼロ除算は自明であり、b/0=0 であるとした。
それゆえに、神秘的な歴史を持つ、ゼロ除算は 実は当たり前であったが、現在でもそうは認識されず混乱が続いている。その理由は、関数 W = 1/z の原点での値をゼロとする考えに発展、適用するとユークリッド以来、アリストテレス以来の世界観の変更に繋がるからである。1/0は無限大、無限と発想しているからである。実際、原点の近くは限りなく原点から遠ざかり、限りなく遠くの点、無限の彼方に写っている歴然とした現象か存在する。しかるに 原点が原点に写るというのであるから、これらの世界観は ユークリッド空間、アリストテレスの世界観に反することになる。それゆえに Moore-Penrose一般逆は一元一次方程式の場合、意味がないものとして思考が封じられてきたと考えられる。
そこで、この新しい数学、世界観が、我々の数学や世界に合っているか否かを広範囲に調べてみることにした。その結果、ユークリッドやアリストテレスの世界観は違っていて、広範な修正が必要であることが分った。

そこで、次のように表現して、広く内外に意見を求めている:

 Dear the leading mathematicians and colleagues:
 Apparently, the common sense on the division by zero with a long and mysterious history is wrong and our basic idea on the space around the point at infinity is also wrong since Euclid. On the gradient or on derivatives we have a great missing since $\tan (\pi/2) = 0$. Our mathematics is also wrong in elementary mathematics on the division by zero.
I wrote a simple draft on our division by zero. The contents are elementary and have wide connections to various fields beyond mathematics. I expect you write some philosophy, papers and essays on the division by zero from the attached source.
____________
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1
-16.  
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
国内の方には次の文も加えている:
我々の初等数学には 間違いと欠陥がある。 学部程度の数学は 相当に変更されるべきである。しかしながら、ゼロ除算の真実を知れば、人間は 人間の愚かさ、人間が如何に予断と偏見、思い込みに囚われた存在であるかを知ることが出来るだろう。この意味で、ゼロ除算は 人間開放に寄与するだろう。世界、社会が混乱を続けているのは、人間の無智の故であると言える。
 三角関数や2次曲線論でも理解は不完全で、無限の彼方の概念は、ユークリッド以来 捉えられていないと言える。(2017.8.23.06:30 昨夜 風呂でそのような想いが、新鮮な感覚で湧いて来た。)
ゼロ除算の優秀性、位置づけ : 要するに孤立特異点以外は すべて従来数学である。 ゼロ除算は、孤立特異点 そのもので、新しいことが言えるとなっている。従来、考えなかったこと、できなかったこと ができるようになったのであるから、ゼロ除算の優秀性は歴然である。 優秀性の大きさは、新しい発見の影響の大きさによる(2017.8.24.05:40) 
思えば、我々は未だ微分係数、勾配、傾きの概念さえ、正しく理解されていないと言える。 目覚めた時そのような考えが独りでに湧いた。
典型的な反響は 次の物理学者の言葉に現れている:
Here is how I see the problem with prohibition on division by zero, which is the biggest scandal in modern mathematics as you rightly pointed out(2017.10.14.8:55).
現代数学には間違いがあり、欠陥がある、我々の空間の認識はユークリッド、アリストテレス以来 間違っていると述べている。
ゼロ除算の混乱は、世界史上に於ける数学界の恥である。そこで、数学関係者のゼロ除算の解明による数学の修正を、ゼロ除算の動かぬ、数学の真実にしたがって求めたい。詳しい解説を 3年を超えて素人向きに行っている:

 

数学基礎学力研究会公式サイト 楽しい数学

www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
以 上

再生核研究所声明 395(2017.11.5):  ゼロ除算物語 - 記録、回想

ゼロで割る問題は、ゼロ除算は 2014.2.2 友人二人に100/0=0を認識したとメールしてから、面白いいろいろな経過があって発展している。 再生核研究所声明や解説などで経過を述べてきたが、印象深い事実をできるだけ事実として記録して置きたい。文献は整理して保管するように整理して置きたい。事実を記録するため、以下詳しい記録は特別な仲間以外は この世を去って3年間は未公開としたい。絶えずできるだけ更新、記録を随時追加していきたい。
2017.11.05.05:40 晴天

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