2017年10月12日木曜日

Pingala

Pingala

 
For the subtle energy channel described in yoga, see Nadi (yoga).

The Chandaḥśāstra is a work of eight chapters in the late Sūtra style, not fully comprehensible without a commentary. It has been dated to the last few centuries BCE.[3][4] The 10th century mathematician Halayudha wrote a commentary on the Chandaḥśāstra and expanded it.Pingala (Devanagari: पिङ्गल piṅgala) (c. 3rd/2nd century BC[1]), is the influential ancient scholar and the author of the Chandaḥśāstra (also called Pingala-sutras), the earliest known treatise on Sanskrit prosody.[2]

Contents

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Combinatorics[edit]

The Chandaḥśāstra presents the first known description of a binary numeral system in connection with the systematic enumeration of meters with fixed patterns of short and long syllables.[5] The discussion of the combinatorics of meter corresponds to the binomial theorem. Halāyudha's commentary includes a presentation of the Pascal's triangle (called meruprastāra). Pingala's work also contains the Fibonacci numbers, called mātrāmeru.[6]
Use of zero is sometimes ascribed to Pingala due to his discussion of binary numbers, usually represented using 0 and 1 in modern discussion, but Pingala used light (laghu) and heavy (guru) rather than 0 and 1 to describe syllables. As Pingala's system ranks binary patterns starting at one (four short syllables—binary "0000"—is the first pattern), the nth pattern corresponds to the binary representation of n-1 (with increasing positional values).
Pingala is credited with using binary numbers in the form of short and long syllables (the latter equal in length to two short syllables), a notation similar to Morse code.[7] Pingala used the Sanskritword śūnya explicitly to refer to zero.[8]

とても興味深く読みました:

再生核研究所声明3392016.12.26)インドの偉大な文化遺産、ゼロ及び算術の発見と仏教

世界史と人類の精神の基礎に想いを致したい。ピタゴラスは 万物は数で出来ている、表されるとして、数学の重要性を述べているが、数学は科学の基礎的な言語である。ユークリッド幾何学の大きな意味にも触れている(再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学)。しかしながら、数体系がなければ、空間も幾何学も厳密には 表現することもできないであろう。この数体系の基礎はブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)インド数学者天文学者によって、628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)の中で与えられ、ゼロの導入と共に四則演算が確立されていた。ゼロの導入、負の数の導入は数学の基礎中の基礎で、西欧世界がゼロの導入を永い間嫌っていた状況を見れば、これらは世界史上でも顕著な事実であると考えられる。最近ゼロ除算は、拡張された割り算、分数の意味で可能で、ゼロで割ればゼロであることが、その大きな影響とともに明らかにされてきた。しかしながら、 ブラーマグプタはその中で 0 ÷ 0 = 0 と定義していたが、奇妙にも1300年を越えて、現在に至っても 永く間違いであるとしてされている。現在でも0 ÷ 0について、幾つかの説が存在していて、現代数学でもそれは、定説として 不定であるとしている。最近の研究の成果で、ブラーマグプタの考えは 実は正しかった ということになる。 しかしながら、一般の ゼロ除算については触れられておらず、永い間の懸案の問題として、世界を賑わしてきた。現在でも議論されている。ゼロ除算の永い歴史と問題は、次のアインシュタインの言葉に象徴される:

Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics. George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist re-
marked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as the biggest blunder of his life [1] 1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
他方、人間存在の根本的な問題四苦八苦(しくはっく)、根本的な苦 四苦
·         愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
·         怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
·         求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
·         五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦に対する人間の在り様の根本を問うた仏教の教えは人類普遍の教えであり、命あるものの共生、共感、共鳴の精神を諭されたと理解される。人生の意義と生きることの基本を真摯に追求された教えと考えられる。アラブや西欧の神の概念に直接基づく宗教とは違った求道者、修行者の昇華された世界を見ることができ、お釈迦様は人類普遍の教えを諭されていると考える。

これら2点は、インドの誠に偉大なる、世界史、人類における文化遺産である。我々はそれらの偉大な文化を尊崇し、数理科学にも世界の問題にも大いに活かして行くべきであると考える。 数理科学においては、十分に発展し、生かされているので、仏教の教えの方は、今後世界的に広められるべきであると考える。仏教はアラブや欧米で考えられるような意味での宗教ではなく、 哲学的、学術的、修行的であり、上記宗教とは対立するものではなく、広く活かせる教えであると考える。世界の世相が悪くなっている折り、仏教は世界を救い、世界に活かせる基本的な精神を有していると考える。
ちなみに、ゼロは 空や無の概念と通じ、仏教の思想とも深く関わっていることに言及して置きたい。 いみじくも高度に発展した物理学はそのようなレベルに達していると報じられている。この観点で、歴史的に永い間、ゼロ自身の西欧社会への導入が異常に遅れていた事実と経過は 大いに気になるところである。

以 上
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.scirp.org/journal/alamt
   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

Announcement 326: The division by zero z/0=0/0=0 - its impact to human beings through education and research

再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか

ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:

Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
数 0 は正でも負でもなく、素数でも合成数でも単数でもない。しかし、0は偶数である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0x= 0 である。しかしx0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。

実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:

しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:

19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。

複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。

全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。

古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。

2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上

再生核研究所声明 385(2017.10.11): 地の果て、無限の彼方、平面の究極の果てを観るー 永遠とは何か、無限の先の不思議さ


平面上をどこまでも どこまでもある直線上を一方方向に行ったらどうなるだろうか。永遠とはどのようなものだろうか? そのようなことを多くの人は自然に思う、考えるのではないだろうか。これについて どこまでも どこまでも行っても行き着くことはなく、どこまでも どこまでも行くと考えるのが、 ユークリッド幾何学に現れる空間の捉え方であった。― これは砂漠の文化を反映していると哲学の先生に聞いたことがある。果てしない空間と歩みからである。
これに対して、立体射影で平面を球面上に写せば、どのような方向に行っても球面上の北極に対応する点として無限遠点が考えられ、全平面は 球面上の北極点を除いた点に1対1に対応して、無限遠点を球面上の北極に対応させれば、全球面と拡張された平面は 全体が1対1に対応して、ある意味で平面は完全化される。 ― これはアレクサンドルフの1点コンパクト化と呼ばれている。平面上の直線も円も立体射影で球面上では円に写り、平面上の直線と円は、立体射影で球面上では、北極を通る円に対応するか、北極を通らない円に写るかの違いに過ぎないとなる。すると直線と円は全体として1対1に対応して、円を1方向に行けばぐるぐる回るように、平面上をどこまでも どこまでも直線上を一方方向に行ったら 無限遠点を経由して反対方向から戻ってくることになる。- (この詳しい説明はサイトで簡単に説明されているので知識の無い方は参照して下さい。 以下に出てくる、円の鏡像やローラン展開もそうです。) これは永劫回帰、輪廻思想を表現するものとして 実に美しく楽しい。- この思想は四季を有するアジア文化の世界観を表しているという。
上記2つの考えは、基本的な世界観で ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学(楕円型)で、後者も確立して百年以上複素解析学を支える空間として定説になってきた。
ところがゼロ除算が齎した空間は これらとは全く異なる空間で、しかも、新しく発見された空間が 我々の初等数学全般を支える空間であることが 沢山の具体例で明らかにされてきた。
上記立体射影をもう1度振り帰えろう。その立体射影で、直線上を一方向にどんどん行けば、限りなく 球面上では 無限遠点に近づいていることが確認できる。そこで、その先、近づいた先を無限遠点として無限の記号で表してきた。どんどん球面上では北極に近づく、極限点は北極であると言える。しかしながら、ここで驚嘆すべきことがあった。近づいた先が無限遠点は良いが、実は究極の先で不連続性があって、突然、そこで 原点になっているというのが ゼロ除算の結果である。すなわち、W= 1/z に対して、 原点の値がゼロである。簡単な関数 y=1/x で原点の値はゼロである。ゼロの近くでプラス、マイナス無限に幾らでも近づくが、原点で不連続にゼロの値をとっている。繰り返し述べてきたようにこれが、アリストテレスの世界観に反し、ゼロ除算の理解を遅らせる、ゼロ除算が嫌われている一つの要素である。- 驚嘆すべき現象と言える。
どこまでも どこまでも直線上を一方方向に行ったら、限りなく無限遠点に近づく、しかしながらその先は、突然、原点に飛んでいる。動きの全体を簡単な関数y=1/xのグラフで理解して欲しい。
無限の先の不思議さに触れて行きたい。A を中心とするある円の、中心 A の鏡像は 世の常識と違って、実は中心 Aであることが証明された。中心Aの近くの点は無限遠点の近くに写るから、鏡像変換で中心 Aだけが 飛んで変に写っていることになる。この対応は円の半径には寄らない性質であることを確認したい。すると円外の無限遠点の近くが、中心 Aによることになり、無限遠点が一つだろうかという疑念が湧いてくるのではないだろうか。中心 Aごとに無限遠点が対応しているのではないだろうかとの思いがするだろう。- アレクサンドロフの1点コンパクト化とは、あらゆるコンパクト集合の外にある点を想像上で考えて1点コンパクト化と定義していて、1点は定義である。しかるに、立体射影では 原点の上に存在する北極点に対応する想像上の平面上の点として無限遠点が 定義されている。いずれも1点は定義で、イチ1についての意味は与えられていない。- さらに 立体射影が 平面の座標軸の取り方によっているのは歴然である。
さて、我々はゼロ除算算法を導入した。すなわち、 関数f(z)のa 点の周りでのローラン展開において 値f(a)を その展開における 定数項C_0で定義する。負べき項が存在するとき、z が aに近づくとき、f(z)は無限に、極に、無限遠点に近づくが、z が a自身ときは 値C_0をとる。この値は関数fによって 強力な不連続性で決まる。- これは無限の先に存在するという意味で、関数による無限遠点ともいえる。この値には不思議な性質があることを紹介しておこう:
次は 角の3等分を考えて生まれたNicomedes (BC 280—BC 120)の曲線である。
r = a + b/(cos theta);
a,b> 0 定数、x 軸を原線とする極座標。直線 x = bを考えるとこの関数のグラフは興味深い幾何学的な意味を有することが分かる(考えて欲しい)。もちろん、グラフはx 軸に対称で直線 x = bを漸近線にしている。aがゼロのとき、グラフは直線x = b である。しかしながらゼロ除算算法で、theta が 直角のとき、x,y直交座標系で、点(0,a)を表すことになり、この点の意味付けは 難しく神秘的とも言える。直線 x = bを漸近線にしているのに、奇妙な点(0,a)が曲線(関数)の無限遠点になっている。
次は Diocles (BC 249?-BC180?) の疾走線と呼ばれる面白い曲線であるが表現は複雑なので、適当な座標系で (2a –x)y^2 = x^3, r = 2a(1/ (cos theta) - cos theta) などと表されると述べるが、特異点ではいずれも美しい、関数のグラフの頂点が 無限遠点になる。この発現は実に面白い。― それにしてもギリシャ文化の素晴らしさに感銘を受けてしまう。
今回の話題はホットでいわば最前線の研究課題とも言えるので自由に考え、かつ新しい世界を探検して欲しい。元前橋工科大学教授 奥村博氏(Ph D.)の楽しい数学は大いに楽しめるのではないでしょうか。円と直線に関するユークリッド幾何学(和算)に ゼロ除算は新しい世界を拓いている。沢山ゼロ除算の結果が幾何学的に現れていて実に楽しい。それらは、 ユークリッド以来の新しい世界である。    
                               以 上

再生核研究所声明 386 (2017.10.12):  ゼロ除算の反響と存念、想い出、物語


ゼロ除算については、日本数学会での講演も3年間、春、秋の数学会で連続的に6回講演してきたが、学会では慎重に対応し 十分に講演内容を明らかにして臨んだ。数学会のプログラムは印刷物で5000をこえる部数を配布し、アブストラクトなども公開されているから 発見の先取性も保証されているという。学会講演が重要視されるのは当然である。内容は初歩的で誰でも関心を抱く性質を基本的に有していると考えられ いろいろな分科会で講演している。講演の冒頭、世にも稀なる事件が起きたと述べてきたが、それは誠にそうである。
アヴェイロ大学にいるときに偶然発見したものであるが、最初から異様な雰囲気であった。あまりにも基本的で しかも驚くべき結果であるので、状況の理解が出来ず、広く世界に状況を聞いたものである。如何に驚き、慎重に対応したかは再生核研究所声明などに詳しく記録されている。最初から、これは世界史上の事件に係わり、将来ゼロ除算物語ができると感じていたからである。― 無限遠点がゼロで表され、 ユークリッド以来 空間の認識が変更される。アリストテレスの世界観の変更が要求される。そこで、自分自身永く迂闊には話せない心情が有った。そこで、典型的な反響は、まず、ゼロ除算の結果を聞いて、
数学的にそんな筈はなく、全然問題にならないと発想する者が多い。- この6月、大きな微分方程式の国際会議(https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017)に招待され、全体講演を行うまでに認知、評価されているが、講演の後、感情を露にして、現代数学を破壊するもので全然認められないと発言された人が居たが、それは、典型的で率直な反響の例である。― とんでもないという発想である。感情を露に始めから拒否する者は結構多く、いろいろな人の表情が想い出される(折をみて興味深い実例を客観的な事実として纏めて置きたい)。まるで悪魔を見たような表情である。- これらを記録するとゼロ除算物語の面白い場面になるだろう。- これらの反響はどうしてかと 繰り返し反芻して、想いを巡らしてきている。
まず、ゼロでは割れないは 生まれながらの定説で、偉大なる数学史の永い間の定説である。多くの天才たちが関与してきて、絶対に揺るぐことのない真実だと 真面目な数学者ほど その信仰は深いと考えられる。それで、ゼロ除算は初めからダメ、興味も関心もないと断定される。3年経っても私の考えは変わらないと 相当な数学者が断定しているのには驚かされる。ゼロ除算については 世界には 相当おかしなことを考えている人が多く、また変な説が現れたかと、無視の態度を取る者が多い。ここに述べたのは、ゼロ除算の新しい発見、論拠を知らずに 初めから関与したくない者の態度を述べている。- 兎に角事情を知らず、初めからゼロ除算はダメ、興味も関心もない - である。
それらの原因には、ゼロ、空や無に対するいやな感じと、連続性、飛びに対する受け入れられない感覚があると言える。数学依然の感覚の問題である。
ところがゼロ除算の内容を知っても ゼロ除算はダメだと考える数学者は多い。ここにも2通りの人がいる。数学を誤解して、矛盾に会って、受け入れられない者 と 相当正確に数学の内容を知っても受け入れられない者である。前者は矛盾であるから、正確な理解を求めるのは当然であるが、この観点でも世にも珍しい事件である。3年を超えて理論を詳しく解説し、議論しているのに、数学としてどうしても理解できない専門家がいる。- こうなると数学の論理で説得できない事情さえ現れている。- ゼロ除算は初期から、当たり前、自明であると述べてきているが、このような場合には、先に進めず、理解されるまで待つ他はない。論理などは難しいものはなく、せいぜい高校生程度の論理であるが、上記のような予断で論理を真面目に考えないことの理由であろう。先入観が理解を妨げていると言える。― このような態度をとらないようにするのが、数学教育の重要な精神の一つであるが、皮肉なことに 数学者ほど囚われているような状況である。これは ゼロ除算の歴史をみれば良く分かる、これは既に事実である。
(ここには、相当に研究してきてしまって、最早自らの説を変えられない存念で自説にしがみついている者も複数存在すると感じられる。BBCで世界に奇怪な説を公表した者、著書や間違った論文も結構多く出回っている。それら10数件について、それらはみなダメだと説得している。)
数学は、相当理解しているにも関わらず、ゼロ除算の数学はダメだ、それは齋藤の世界で、そのような数学はできないと発想している 真面目で有能な数学者も結構いる。この背景についても思いを巡らしている。どうしてだろう。あるドイツの方に国際会議の開催される町までバスで一緒になり 話したときの反響が極めて印象的である。関数 W= 1/z の原点での値はゼロであるなどと述べたとき、異様な表情をされて それは アリストテレスの世界観に反するので、受け入れられない、それが正しくとも そのような数学は受け入れられない、議論を打ち切りたいと 感情むき出しにしたものである。彼は極めて有能で紳士的な数学者である。20年以上も前にオーベルバッハ数学研究所での国際会議で 一緒で お互いの勇姿(?)の想い出を共有している。国際会議場や晩餐会、観光などで沢山写真を撮ってくれた。それ以来、ずっとアリストテレスを意識することとなったが、数学が分かっても新しい数学を受けいれられないのは、その心は、連続性が崩れている新しい現象のためと考えられる。無限の先が 突然、原点に飛んでいる現象が奇怪に感じられるためである。 ― しかし この点で、関数y=1/xの原点の値がゼロであることは、図を見て、原点が関数のグラフの中心になるので、それは良い、美しいと発想する者も多い。
そこで、我々の世界、数学はどうなっているか と問い、初等数学全般を見直すことにした。はじめは 新しい数学は変な小さな例外的な世界を記述するかも知れないという気持ちもあったが、円の鏡像の古典的な結果の間違いやx、y直交座標系でy軸の勾配がゼロであることを発見してから、どんどんゼロ除算が我々の世界に現れていて、我々の世界ではゼロ除算、関数にゼロ除算を適用したゼロ除算算法が無ければ、我々の数学は不完全で、従来数学の盲点が露になってきた。現代数学には間違いを含む欠陥があると主張している。そこで、この重要な内容の理解を求めて、114ページに全体的な解説を纏めて、下記のような文を付けて内外の数学者たちに広く意見を求めている:
Dear the leading mathematicians and colleagues:
Apparently, the common sense on the division by zero with a long and mysterious history is wrong and our basic idea on the space around the point at infinity is also wrong since Euclid. On the gradient or on derivatives we have a great missing since $\tan (\pi/2) = 0$. Our mathematics is also wrong in elementary mathematics on the division by zero.
I wrote a simple draft on our division by zero. The contents are elementary and have wide connections to various fields beyond mathematics. I expect you write some philosophy, papers and essays on the division by zero from the attached source.
____________
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hi roshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1
-16.  
http://www.scirp.org/journal/alamt     http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007 ;
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html ;
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://okmr.yamatoblog.net/division%20by%20zero/announcement%20326-%20the%20divi
http://okmr.yamatoblog.net/
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017
国内の方には次の文も加えている:
我々の初等数学には 間違いと欠陥がある。 学部程度の数学は 相当に変更されるべきである。しかしながら、ゼロ除算の真実を知れば、人間は 人間の愚かさ、人間が如何に予断と偏見、思い込みに囚われた存在であるかを知ることが出来るだろう。この意味で、ゼロ除算は 人間開放に寄与するだろう。世界、社会が混乱を続けているのは、人間の無智の故であると言える。
三角関数や2次曲線論でも理解は不完全で、無限の彼方の概念は、ユークリッド以来 捉えられていないと言える。(2017.8.23.06:30 昨夜 風呂でそのような想いが、新鮮な感覚で湧いて来た。)
ゼロ除算の優秀性、位置づけ : 要するに孤立特異点以外は すべて従来数学である。 ゼロ除算は、孤立特異点 そのもので、新しいことが言えるとなっている。従来、考えなかったこと、できなかったこと ができるようになったのであるから、ゼロ除算の優秀性は歴然である。 優秀性の大きさは、新しい発見の影響の大きさによる(2017.8.24.05:40) 
思えば、我々は未だ微分係数、勾配、傾きの概念さえ、正しく理解されていないと言える。 目覚めた時そのような考えが独りでに湧いた。
現代数学には間違いがあり、欠陥がある、我々の空間の認識は間違っていると述べているので、相当の数学者は興味と関心を持たざるを得ないのではないだろうか。
しかしながら、それでも興味も関心を持たない人がいるが、それは あまりにも忙しく 他に興味や関心を抱く余裕がない状況に置かれているからではないだろうか。生活に追われたり、自分の専門にはまっている場合が多いのではないだろうか。数学などは 抽象的な世界とも言えるので、そんなことに関わっては居られないという心情、状況があるのではないだろうか。もちろん、意欲が無ければ論外である。興味、関心が無ければ始まらない。
しかしながら、1300年以上に亘って、算術の創始者が0/0は0であると定義していたものを それは間違いであると言ってきた世界の数学界は 相当おかしく、世界の数学界の恥ではないだろうか。またこのような状況に対しては研究者として 良心の呵責を感じてしまう。
以 上

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