2016年12月2日金曜日

ごはんを食べられなくなったら、人間は5日くらいで安らかに息を引き取る。そんな“平穏死”を推進する医師や病院も増えている - 「賢人論。」第28回(前編)石蔵文信氏

ごはんを食べられなくなったら、人間は5日くらいで安らかに息を引き取る。そんな“平穏死”を推進する医師や病院も増えている - 「賢人論。」第28回(前編)石蔵文信氏




石蔵文信氏は1955年生まれで、団塊世代の下の世代にあたる。循環器系の専門医として救急医療の現場に勤務していた経歴の持ち主だ。定年退職をした夫のうつが妻のうつを引き起こす「夫源病」という言葉の生みの親でもある。そんな石蔵氏は、昨今の高齢者救急医療のあり方や死に対する我々の考え方に警鐘を鳴らす。そして、“多くの年金をもらえることが幸せだ”という価値観に疑問を投げかける、氏の真意とは?
取材・文/猪俣ゆみ子(編集部) 撮影/公家勇人

高齢者の救急医療の現実。無理な医療措置を行うことは果たしていいのだろうか

みんなの介護 石蔵先生は医師としてご活躍され、著書もたくさん出されています。現在の介護業界や高齢者医療について、問題と思われることはありますか?
石蔵 今の介護って、何かあればすぐお医者さんに、という傾向があるでしょう。でもそれでは医療費がいくらあっても足りません。超高齢者は、何かあったらそれが天寿と思った方が良いかもしれません。それから、なんでもできる自立した人を施設に入れてしまうというのも、考え直したほうがいいことだと思います。
みんなの介護 “なんでもできる人”というのは、身の回りのことを自分でできる人のことでしょうか?
石蔵 そうです。どうしてそういった人を施設に入れるのかというと、一番多い理由が「心配だから」。介護が必要な程度は人によって違うだろうけれど、多くの施設には“自立”できている高齢者でも入居できる、いわゆる“24時間医師・看護師が対応するから安心”というところがあるでしょう。
私はよく「医者がいるほうがえらい目にあってしまう」と言っています。どうしてかと言うと、救急医療をやってきたから思うことなんですが、80、90歳の人が救急で運び込まれることもあるわけです。そういった高齢の患者さんに心臓マッサージをすると、あばら骨が折れたり、管をたくさん入れて何とか蘇生して病室に運んでも、1週間ほどで亡くなることが多い。
救急車を呼ばれると、救急隊と救急病院は何もしないというわけにはいきません。なぜなら、何もしないと訴えられる可能性があるからです。もちろん、患者の家族はつい「できる限りのことをしてください」と言いますよね。そういわれると、病院は処置をやらないわけにはいかないから「できる限りのことをやります」と答えてしまう。でも、できる限りのことをすれば、ものすごい医療費がかかってしまうのですよ。患者本人は、あばら骨を折られて、管を入れられて点滴を入れられて、数日たつと体中が浮腫(水分過剰)になって亡くなられる…というのが、高齢者の救急の現実です。
みんなの介護 年齢を問わず、誰かが急に倒れたりしたら救急車を呼ぶ、というのは至極もっともな流れだと思うのですが…。
石蔵 そういうときに、救急車を呼ぶというスイッチを押さないで看取りの先生に電話をすれば、自宅に来ていただいて、脈をとってもらい“ご臨終です”というふうになるかもしれません。救急病院で処置されるのと静かに看取られるのでは医療費がかなり違うと思います。救急病院でお金をかけて処置をしたとしても、今説明したように、多くの場合、本人は苦しむ可能性が高い。たくさんのお金がかかっているのに、本人もつらい、医療関係者も大変という問題が生じます。救急隊が呼ばれる回数も増えているという問題もあります。
ある先生が「救急車を呼ぶということは“平穏死”ができないスイッチを押すことだ」と言っておられましたよ。
みんなの介護 平穏死とは、芦花ホームの石飛先生が提唱している、安らかな最期の迎え方のことですよね。
石蔵 石飛先生とはよく交流しています。私らは「生き方死に方を考える社会フォーラム」をやっていますが、私らが今から10年、20年前に診た末期がんの患者さんは、1分1秒でも長く生きてもらうために挿管とか点滴とかをするわけです。それは、はた目から見ていても苦しそうです。次第に水が溜まっていって、仕方がないので胸や腹から水を抜く。でも次の日は、同じように胸や腹に水が溜まります。
看取りをやっている石飛先生にお聞きすると、ごはんを食べられなくなるのは、体が受けつけないわけだから、点滴などをしなければ5日くらいで安らかに息を引き取られるらしいです。そうなると余裕をもって家族で集まることができる。それが平穏死というものです。本人も楽、家族も余裕のある、お金がかからない死に方なんだけれど、唯一の欠点をあげるならば、医療側の収入にならないのです。
最近では、政府は、在宅で看取ったときの医療報酬をある程度高くして在宅での看取りを勧めています。このような財政誘導で“平穏死を推進してくれる”病院や医院が増えてきているようです。

死は“負け”ではない。ある程度のところまできたら家族も覚悟をすべき

みんなの介護 我々、病院を利用する側として気をつけなければならないことは。
石蔵 さっき言ったような「できる限りのこと」をやろうとする病院に入ると、苦しいし、しんどいだけだから、みなさん方の考え方を“安らかな最期の迎え方”に向けることですね。“何もしない医療が悪い”と思わずに、人、特に超高齢者が食べられなくなったとしたら、それは自然死が近いということだから、治療する医療より看取りを考えたほうが良いと思う。
みんなの介護 “何もしない医療”を受け入れるということはすごく勇気のいることですね。
石蔵 死が負けではなくて、患者さんを看取ってあげるということはすばらしいことなんだと皆が思うようになると、看取りが生きがいになっていくスタッフもいるわけです。むしろ、「点滴をしたり胃ろうにしたりするほうが、心が荒んでくる」と打ち明けるスタッフもいる。ある時期にさしかかったら過度の医療措置や介護をするのではなく良い看取りをするんだ、という意識になれば、すごくやさしくなれる。きちんと看取りをしたほうが利用者本人のためにもいいし、家族にとってもいいと思うのです。
石飛先生が提唱してから、介護の現場でも胃ろうはだいぶ減ったんじゃないかな。私の友達に、胃ろうを作ることを専門としている消化器の医者がいるんですが、彼と5年前に会ったときは「毎週作らなきゃ」と言っていた。それが、この前会ったら「月に1つもやっていない。ものすごく減った」と言っていた。
超高齢者が胃ろうをすると、3年から5年くらい“長生き”できるかもしれない。“長生き”というのは“心臓が動いている”というだけでね。胃ろうをするということは、口から食べられなくなったということ。十分食事が食べられなくなったら、胃ろうをせずに平穏死にもっていきましょう、と家族が同意すると、そこから1か月くらいでほとんど食べられなくなり、何も食べられなくなってから4、5日で亡くなられるようです。
みんなの介護 とはいえ、“目の前の患者さんを何とかしなければならない”と思っている人もまだまだいると思うんですね。
石蔵 多少いらっしゃるとは思いますが、今は、訴えられるか、訴えられないかの問題の方が大きいようです。ほとんどの救急医は、90歳のおじいちゃんが運び込まれてきて、“何にもせんほうがいいのに”と思うでしょう。「おじいちゃーん!おじいちゃーん!」って言っている家族に、先生が「どうしますか?」と聞くと「できるだけのことをしてください!」と言っちゃう。家族は何気なく言うんだけれど、医者にとってみたら“できるだけのこと”って、“ここの病院にあるすべての医療機器を使わなければ訴えられるのではないか”と思ってしまうわけです。

命は地球より重い?地球がなくなったら人類はもとよりすべての生命が失われる

みんなの介護 一筋縄ではいかないと思いますが、大事な家族が死ぬか助かるかという状況になったら、やっぱり「何とかしてください!」と思うものだし、言ってしまうのでは。
石蔵 だから、家族の修行が大事なんです。かなり弱ったおじいちゃん、おばあちゃんが倒れたときに、例えば、パニックになって救急車を呼ぶよりは、ちょっと一息おいて、看取りの先生を呼ぶというシミュレーションをしておく、というのが大事だと言われています。
まわりに家族がいるということは安心かもしれないけれど、いわゆる“よい死に方”ができない可能性があるということを知ってほしいですね。ある程度のところまできたら、家族も覚悟をしないといけない。“このおじいちゃん、おばあちゃんは今度あったら死ぬんだよ”という覚悟をして、看取りの先生に毎週来てもらうのが一つ。これも医療費はかかるけれど、救急医療に比べたら安いもんですよ。それに、死に方がよりいいと思うんです。よい看取りをしながら、家族も満足して、本人は逝ける。
こういう話をすると決まって“命って地球より重いんです!”とか何とか言う人がいますが、その人たちには「地球がなくなったら人類はもとよりすべての生命が失われる。やっぱり地球の方が断然重いでしょう」と問いたいね。やっぱり、年を取ってくれば適切なところで命を全うしないと、残された人に迷惑をかける可能性が高い。高齢の親の介護で一生を棒に振る家族もいるわけです。例えば、これから昇進していくときだったり、子どもの教育費がすごくかかってきてお金が必要なときに介護離職なんて悲惨です。
みんなの介護 今は介護離職で悩んでいる人も多いと言われています。
石蔵 私がよく「介護は3か月くらい家でみたら、施設に入れなさい」ということ。「あなたの幸せを考えなさい」と言っています。介護は“適当”でいい。
みんなの介護 身の回りのことをできなくなった親の老後をきちんと支えてあげるのが、子どもの使命だ、という人もいます。
石蔵 マスコミの影響もあるんじゃないでしょうか。みんなでプレッシャーを感じて結局のところ、家で診ている人も診られている人も行き詰まり、うつになったり虐待を起こしたりする。気持ちが深く入って、距離が近いほど虐待が起こりやすい。だけど、例えば“施設に入れて悪いな”という気持ちで週に1回でも会いに行けば、機嫌よくできるでしょう。そっちのほうがよっぽどいいですよ。http://blogos.com/article/200201/


再生核研究所声明 47(2011.02.08):  肯定死
(2011年1月5日 9時10分、 浅草に近づき、電車の窓外の空を見たときに電光のように閃いた考えです。 新しい声明の案がひとりでに、わきました。 全構想は瞬時にできていましたが、それを検討し、成文化したものです。 題名は肯定死、という 現代では問題のある思想です。人間の終末に対する新しい考え方です。これは社会的影響が大きいと考えられるので、全文は 当分、公表を差し控えたい。)
そもそも人生とは何か、これを内からみれば、人生とは、個人の考え、知り、感じ、予感し、想像する、すなわち、知覚する全体であり、それらが良いと感じられれば、それだけ良い人生であると言える(声明12: 人生における基本定理)。 しかしながら、我々はまず、個々の人間を越えて、存在し、生き続けていく、 元祖生命体の考え (声明36) をしっかりととらえ、 生命の基本定理 (声明42) - 生きて存在しなければ、 何も始まらない - 元祖生命体の生存に心がける、 最も大事なこと(声明13)に思いを致すべきである。しかしながら、個々の人間は、遺伝子の乗り物のように滅びていくのが、事実であり、それはあらゆる生物の運命であると考えられる。 しからば、その人間の終末は如何にあるべきか。 それはちょうどあらゆる生物の終末のように、意識の存在の有る無しに関わらず、生物個体の生命として、人事を尽くして、少しでも生命を長引かせると考える、伝統的な考えは それなりの固有な意義を有するものであると考える。 否定するものではない。(以下 当分非公開)
再生核研究所声明 63 (2011.05.25) : 
解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得

人が世に生まれ、終末を迎えるに当たって、できれば、人生を肯定的にみて、安らかな終末を迎えたいと考えるのは 相当に基本的な願いではないかと考える。そこで、再生核研究所声明においても、 再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道、再生核研究所声明 57:人生とは何か、人生如何に生きるべきか などで、ふれ、人生の意義などについても、再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について などでふれている。 しかるに、

2011.5.14.08:40 宿舎から研究室に向かっているとき、無意識に歩けるとは 何と素晴らしいことだろう、と思い巡らして歩いていたら、 突然、 解脱という言葉が 湧いてきて、 その意味を理解できました。 その意味は 暫く、検証するとして、効果は、死の現象をのりこえて、 永遠の生命に 帰依することが できるだろうと 直観した。
 
と 直ちに書き留めておいたように、理由もなく解脱の言葉が湧いてきて、その本質を直観したような経験をした。 そこで、 その背景を言葉で表現して、解脱への暗示、ヒントとしたい。 このような見方が、神、自由、不死に至る道、1種の悟り、安らかな終末を迎える心構えになると考える。

人間とは何だろうか、 人生とは そもそも何だろうか。 多くの人は毎日歩いているが、 しかし、 考えて歩いているのは、意識して歩いているのは殆どないと言える。 すなわち、私たちは無意識のうちに歩いているのである。 それと同じように、 恋をして子供を儲けたり、育ててきたりしていますが、 人生の殆どは 本能のような 何かに動かされて生きてきているとも言えます。 我々の意識する世界とは、 我々の大きな生命のいとなみからすると、ほんの僅かな部分に過ぎないことが分かる。 なぜ生まれてきて、 どうなって行くのかも分からないのが、 人間であり、 人生と言えます。 我々を世に送り、その本質部分を動かしているのは、元祖生命体の 生命のいとなみ自身 ではないでしょうか。 その雄大な生命の一部を ほんの少し、担っているのが 人生ではないでしょうか。 雄大な生態系の ほんの一部を になっている のが人生であり、人間ではないでしょうか。
私たちは、その雄大な生命、元祖生命体のほんの一部ですから、我々の仮想的な部分が消えてもその本質である元祖生命体は永続していく 雄大な存在と言えます。 解脱とは、 仮想的な個人、 人間を離れて、超えて、その雄大な生命に帰依することではないでしょうか。我々のうちには、元祖生命体の本質が内在していて、ここの固体を超えた 大きな生命に通じているのではないでしょうか。 ここの固体から、その永遠の生命を直観するには 世の現象を真面目に見つめ、 自分の内なる世界を見つめれば、自然に湧く信仰として、実現するのではないでしょうか。 ここに朽ち果てていく 自分の生体がある、 その魂は 上記 雄大な生命の一部として、永続していくが、 元祖生命体の乗り物である生物個体としては、滅びていかざるを得ない。 また、元祖生命体の いとなみの全貌、目標などは 知ることもできない。 しかしながら、人間、人生が雄大な生命活動のほんの一部の活動であり、我々が知り、感じ、想像する世界は 実は幻のように儚い 小さものであることを知ることは、 神、自由、不死を感得し、悟りへの道になると考える。
個々の人間の生体は、元祖生命体の、 たとえば、人体の中の一細胞のような存在と考えられよう。
多くの芸術家や数学者は、己が生命の活動として、作品や理論を創作しているが、実は、それらは厳然として実在していたものを 生命活動としての情念によって 内なる生命が働きかけて 形に成ったもので、 実は 自分が創造したものでも、努力して作ったものでもないと言えるのではないでしょうか。 それらの背景には 元祖生命体の 生命体の発露 の一部を見ることができる。
もしわれわれが、 大いなる生命を実感したいと思うならば、絶壁に立ったり、死の面前に立って、われ死するべきかと自らに問えば、 内なる生命は、 単なる自己の意識や感情を越えて、否、それを阻止する 大いなる生命の叫び を感得することができるだろう。 また、親族や民族や友人や親しむ動物や植物に、 それと同じような、共感と共鳴を感じるならば、自己を越えた、大いなる大義に目覚めるときでもあると言える(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。 ― このような文章自体、私が書いたものではなくて、実は、上記 元祖生命体の生命の叫びとして、私を通して、表現しているものと言える。
以 上
再生核研究所声明 120 (2013.5.24): 終末の在りようについての 総合的な検討を、遅れている面での 文化を進めよう ― 個人の自由意志の尊重に基づく  肯定死の保証 と 方法の確立を

人間の終末の在りようは、生きたいという生命の本能に抵触するように感じられるから、誰とて、考えたくない課題であると言える。しかしながら、伝統、習慣、宗教などの永い役割は 自然科学的な精神の影響をうけて、大きな変革が起きていると考えられる。
これは 社会の在り様の問題であるから、まずは、再生核研究所声明1(良い社会を作るには)における、公正の原則を基本に考えるべきであると考える。他の重要な要素とは 基本的な人権に基づく、個人の自由意志の尊重である。客観状況としては、世界に70億を超える人口を有す地球規模における 人口抑制の視点で 今後大きな問題に発展すると考えられる。もちろん、この世の何事をも 再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと に 抵触、背馳してはならない。
 
再生核研究所は、再生の理念を進める研究所であるから、その原点である死の問題を 再生と一体の問題として 一貫して重要視してきている。
生も死も一体のものと 捉えられるようになれば、ただ1日でも、少しでも長く生きれば良いとは考えず、肯定死も肯定できると考える(再生核研究所声明 47: 肯定死)。また、次も参照: 再生核研究所声明 118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 再生核研究所声明 19 : 超越への道、悟りへの道 をおし進めると ― 
人間は自分の生命をも選択する自由を有し、自己の全人生に責任を果たすことが出来る 高貴な存在であると考える。
ところが 有史以来、肯定死を肯定し、どのように保証し、実現を保証するかという社会制度は、在りようは 検討されたことさえ無いようである。
そこで、基本的人権として、肯定死を肯定し実現させる方法の総合的な検討を提案する。公正の原則と個人の自由意志の尊重を基本に 将来の問題として検討すべきではないだろうか、提案したい。
関連問題として、
終末医療の在りよう、
最期の時を迎える、在りようの検討、
葬儀の在りようの検討、
墓など その後の在りようについての 総合的な検討。
それらは、文化や伝統、習慣、宗教、個人の考え方によって大きな影響を受けるので、上記 公正の原則と個人の自由意志を尊重する形で、慣性の法則(再生核研究所声明 72:慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)なども 参考にして、慎重に しかし、総合的な検討が求められる時代を迎えているのではないだろうか。
人生についての総合的な見方については (再生核研究所声明74: 人生・生命の肯定について) を参照。
フランスでも同性婚が認められ、ポルトガルでは 既に法律で認められているが、 公正の原則に背馳しない限り、個人の自由意志を尊重し、多様な世界を志向するのが良いのではないだろうか。上記検討課題についても、個人の自由意志の尊重である。


以 上

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