0(ゼロ)って数字は偶数なの?奇数なの?について…
偶数といえば、2,4、6、8、10、奇数といえば1、3.5.7といった数字を誰しもが思い出しますが、0(ゼロ)というのは偶数なのかという疑問がわいてきます。ある数学の本では偶数とは自然数の中で2で割り切れる数ということになります。また奇数は自然数の中で2で割り切れない数と定められています。つまりどちらの数字も自然数に限られていることになるのです。自然数というのはそもそも1からはじまる数字であり、0(ゼロ)やマイナスは含まれないことになりますので、したがって0(ゼロ)はどちらでもないというのが答えにしたいるわけです。
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0(ゼロ)は世界的には”偶数” |
一方ほかの数学の本では2で割れる数であることから0も偶数としているものがあるのです。世界的にみますと、0(ゼロ)は2で割れる数ということで偶数に含めると解説しているものが殆どで、偶数を扱っているものが圧倒的なのです。二つにわけるということでいいますと、0個のものを二つにわけても0(ゼロ)になるままなので、偶数に入れるということのようです。同じ数学の本でもその解説内容が異なるというのあはなかなか驚かされますが、日本では偶数と学校では教えているようです。
存在しないことの存在を表す0(ゼロ) |
日本のデパートでは1階の下は地下1階、すなわち(-1)階であり、0階はありません。温度計には-1℃,0℃,1℃、値としての0があ ります。試験で0点をとることと、試験を受けないこととは違います。何もないことを0(ゼロ)といい、存在しないものを0(ゼロ)という数字で表すわけですから、0(ゼロ)はあるのかないのかという議論が生まれてきます。
0(ゼロ)という数字の起源 |
位取りの空位を表す記号としてのゼロを発見したのは古代インドですが、バラモン教が無我の境地に自己の存在、すなわち悟りを求めた仏教思想の源流であったことを考えれば頷けます。やがて0(ゼロ)はアラビアを経てヨーロッパに伝わりますが、この地ではなかなか市民権を得るこ とはできませんでした。
0(ゼロ)は悪魔の数? |
0(ゼロ)という数字はそれ自体は存在していないの に1のように存在する数にくっつけると10、100と相手の数をどん どん大きくしますが、その大きな数に0(ゼロ)をかけると今度は何も無くなってしまいます。こういった不可解な性質と、数字0(ゼロ)の形状が魔物を呼び出す入口に似ていることもあり、0(ゼロ)は悪魔の数とみなされ、ローマ法王によって使用が禁止された時代もあったといいます。このように0(ゼロ)は数学の発展史の中では腫れ物に触るように疎まれ、人間は不可侵の呪文を0(ゼロ)に掛けてしまったのです。
最後に・・・ |
事は数学ですから、答えが異なるのはおかしな話ですが、そもそもの定義に対する解釈が異なると、こうした回答が出てしまうこともあるのです。数学の定義については万国共通のものとなっているのが基本ですが、たまにこのようにそもそもの解釈のことなる定義から普通とは異なる答えが登場することもたまにあるというわけです。
どちらかに定義を揃えれば、最終的には答えはひとつになっていきます。特に数学の場合には解けない問題はあるものの、回答が出ている問題には2つ以上の答えは登場しないのが基本となります。したがって、2つの回答がでるということはどちらかのそもそもの定義が間違っている可能性が高いと考えるのが自然です。このあたりがは数学の学問としての明快な部分であるということができそうです。
再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか
ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:
Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0⁄x= 0 である。しかしx⁄0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。
実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:
しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:
19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。
複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。
全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。
古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。
2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明255 (2015.11.3) 神は、平均値として関数値を認識する
(2015.10.30.07:40
朝食後 散歩中突然考えが閃いて、懸案の問題が解決した:
どうして、ゼロ除算では、ローラン展開の正則部の値が 極の値になるのか?
そして、一般に関数値とは何か 想いを巡らしていた。
解決は、驚く程 自分の愚かさを示していると呆れる。 解は 神は、平均値として関数値を認識すると纏められる。実際、解析関数の場合、上記孤立特異点での関数値は、正則の時と全く同じく コ-シーの積分表示で表されている。 解析関数ではコ-シーの積分表示で定義すれば、それは平均値になっており、この意味で考えれば、解析関数は孤立特異点でも 関数値は 拡張されることになる ― 原稿には書いてあるが、認識していなかった。
連続関数などでも関数値の定義は そのまま成り立つ。平均値が定義されない場合には、いろいろな意味での平均値を考えれば良いとなる。解析関数の場合の微分値も同じように重み付き平均値の意味で、統一的に定義でき、拡張される。 いわゆるくりこみ理論で無限値(部)を避けて有限値を捉える操作は、この一般的な原理で捉えられるのではないだろうか。2015.10.30.08:25)
上記のようにメモを取ったのであるが、基本的な概念、関数値とは何かと問うたのである。関数値とは、関数の値のことで、数に数を対応させるとき、その対応を与えるのが関数でよく f 等で表され x 座標の点 x をy 座標の点 yに対応させるのが関数 y = f(x) で、放物線を表す2次関数 y=x^2, 直角双曲線を表す分数関数 y=1/x 等が典型的な例である。ここでは 関数の値 f(x) とは何かと問うたものである。結論を端的に表現するために、関数y=1/xの原点x=0における値を問題にしよう。 このグラフを思い出して、多くの人は困惑するだろう。なぜならば、x が正の方からゼロに近づけば 正の無限に発散し、xが負の方からゼロに近づけば負の無限大に発散するからである。最近発見されたゼロ除算、ゼロで割ることは、その関数値をゼロと解釈すれば良いという簡単なことを言っていて、ゼロ除算はそれを定義とすれば、ゼロ除算は 現代数学の中で未知の世界を拓くと述べてきた。しかし、これは誰でも直感するように、値ゼロは、 原点の周りの値の平均値であることを知り、この定義は自然なものであると 発見初期から認識されてきた。ところが、他方、極めて具体的な解析関数 W = e^{1/z} = 1 + 1/z + 1/2!z^2 + 1/3!z^3 +……. の点 z=0 における値がゼロ除算の結果1であるという結果に接して、人は驚嘆したものと考えられる。複素解析学では、無限位数の極、無限遠点の値を取ると考えられてきたからである。しかしながら、上記の考え、平均値で考えれば、値1をとることが 明確に分かる。実際、原点のコーシー積分表示をこの関数に適用すれば、値1が出てくることが簡単に分かる。そもそも、コーシー積分表示とは 関数の積分路上(簡単に点の周りの円周上での、 小さな円の取り方によらずに定まる)で平均値を取っていることに気づけば良い。
そこで、一般に関数値とは、考えている点の周りの平均値で定義するという原理を考える。
解析関数では 平均値が上手く定義できるから、孤立特異点で、逆に平均値で定義して、関数を拡張できる。しかし、解析的に延長されているとは言えないことに注意して置きたい。 連続関数などは 平均値が定義できるので、関数値の概念は 今までの関数値と同じ意味を有する。関数族では 平均値が上手く定義できない場合もあるが、そのような場合には、平均値のいろいろな考え方によって、関数値の意味が異なると考えよう。この先に、各論の問題が派生する。
以 上
Reality of the Division by Zero $z/0=0$
再生核研究所声明 148(2014.2.12)
100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
100割る0 の意味を質問されたが(なぜ 100÷0は100ではないのか? なぜ 100÷1は100なのか… 0とは何...aitaitokidakenimoさん)、これは、定義によれば、その解、答えが有るとして、a と仮に置けば、 100=a x0 = 0 で矛盾、すなわち、解は、答えは存在しないとなる。
方程式 a x0= b は b=0 でなければ 解は無く、答えが求まらない。(特に、bが0ならば、解 a は 何でも良いと言うことに成る。)
解が、存在しなかったり、沢山の解が有ったりすると言う、状況である。
そこで、何時でも解が存在するように、しかも唯一つに定まるように、さらに 従来成り立っていた結果が そのまま成り立つように(形式不変の原理)、割り算の考えを拡張できないかと考えるのは、数学では よくやることである。数学の世界を 美しくしたいからである。
実際、文献の論文で 任意関数で割る概念を導入している。
現在の状況では、b 割るa の意味を ax – b の2乗を最小にする x で、しかも x の2乗を最小にする数 x で定義する。後半の部分が無いと、a が0の場合 x が定まらない。後半が有ると0として、唯一つに定まる。この意味で割り算の意味を考えれば、100割る0は 0 であるとなる。
上記で もちろん、2乗を最小にする の最小値が0である場合が、 普通の割り算の解、
b 割るa を与える。
もちろん、我々の意味で、0割る0は 曖昧なく、解は唯一つに定まって、0となる。
f 割る g を ロシアの著名な数学者 チコノフの考えた正則化法 と 再生核の理論 を併用すると 一般的な割り算を 任意関数g で定義できて、上記の場合は、100割る0は 0 という解に成る。
すなわち、解が存在しなかった場合に、割り算の意味を 自然に拡張すると 唯一つに解は存在して それは0であると言う、結果である。
上記で、ax – b の2乗を最小にする x で、と考えるのは、近似の考え方から、極めて自然と考えられるが、さらに、x の2乗を最小にする数 x とは、神は、最も簡単なものを選択する、これはエネルギー最小のもの、できれば横着したい という 世に普遍的に存在する 神の意志 が現れていると考えられる(光は、最短時間で到達するような経路で進むという ― フェルマーの原理)、神が2を愛している、好きだ とは 繰り返し述べてきた(神は 2を愛し給う)(http://www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)。
これで、0で割るときの心配が無くなった。この考えの 実のある展開と応用は多い。
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
以 上
文献:
Castro, L.P.; Saitoh, S. Fractional functions and their representations. Complex Anal. Oper. Theory 7, No. 4, 1049-1063 (2013).
ゼロの発見には大きく分けると二つの事が在ると言われています。
一つは数学的に、位取りが出来るということ。今一つは、哲学的に無い状態が在るという事実を知ること。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1462816269
世界中で、ゼロ除算は 不可能 か
可能とすれば ∞ だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。
原点を中心とする単位円に関する原点の鏡像は、どこにあるのでしょうか・・・・
∞ では
無限遠点はどこにあるのでしょうか・・・・・
無限遠点は存在するが、無限大という数は存在しない・・・・
ゼロ除算(1/0=0)は、ピタゴラスの定理(a2 + b2 = c2 )を超えた基本的な結果であると考えられる。
地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか????
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
もし1+1=2を否定するならば、どのような方法があると思いますか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12153951522 #知恵袋_
一つの無限と一つの∞を足したら、一つの無限で、二つの無限にはなりません。
割り算のできる人には、どんなことも難しくない
世の中には多くのむずかしいものがあるが、加減乗除の四則演算ほどむずかしいものはほかにない。
ベーダ・ヴェネラビリス
数学名言集:ヴィルチェンコ編:松野武 山崎昇 訳大竹出版1989年
数学で「A÷0」(ゼロで割る)がダメな理由を教えてください。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411588849 #知恵袋_
割り算を掛け算の逆だと定義した人は、誰でしょう???
0×0=0・・・・・・・・・だから0で割れないと考えた。
唯根拠もなしに、出鱈目に言っている人は世に多い。
multiplication・・・・・増える 掛け算(×) 1より小さい数を掛けたら小さくなる。 大きくなるとは限らない。
ビッグバン宇宙論と定常宇宙論について、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1243254887 #知恵袋_
ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・・ 1+1=2が当たり前のように
『ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった』 ⇒ http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12089827553.html …… →ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・ 1+1=2が当たり前のように、
1÷0=0 1÷0=∞・・・・数ではない 1÷0=不定・未定義・・・・狭い考え方をすれば、できない人にはできないが、できる人にはできる。
明治5年(1872)
ゼロ除算の証明・図|ysaitoh|note(ノート) https://note.mu/ysaitoh/n/n2e5fef564997
Q)ピラミッドの高さを無限に高くしたら体積はどうなるでしょうか??? A)答えは何と0です。 ゼロ除算の結果です。
ゼロ除算は1+1より優しいです。 何でも0で割れば、0ですから、簡単で美しいです。 1+1=2は 変なのが出てくるので難しいですね。
∞÷0はいくつですか・・・・・・・
∞とはなんですか・・・・・・・・
分からないものは考えられません・・・・・
1人当たり何個になるかと説いていますが、1人もいないのですから、その問題は意味をなさない。
よってこれは、はじめから問題になりません。
ついでですが、これには数学的に確定した解があって それは0であるという事が、最近発見されました。
Reality of the Division by Zero z/0 = 0
Einstein's Only Mistake: Division by Zero
0を引いても引いたことにならないから:
君に0円の月給を永遠に払いますから心配しないでください:
再生核研究所声明171(2014.7.30)
掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
(2014.7.11小柴誠一、山根正巳氏との会合で、道脇裕氏の 割り算と掛け算は別であり、ゼロ除算100/0=0は自明であるとの考えを分析して得た考えを纏めたものである。)
ゼロ除算100/0=0は2014.2.2 偶然に論文出筆中に 原稿の中で発見したものである。チコノフ正則化法の応用として、自然に分数、割り算を拡張して得られたものであるが、歴史上不可能であるとされていること、結果がゼロであると言う意味で、驚嘆すべきことであること、さらに、高校生から小学生にも分る内容であると言う意味で、極めて面白い歴史的な事件と言える。そればかりか、物理学など世界の理解に大きな影響を与えることも注目される。詳しい経過などは 一連の声明を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
しかるに いろいろな人たちと広く議論しているところであるが、世界の指導的な数学者でさえ、高校生でも理解できる発表済みの論文 その後の結果について、現代数学の常識を変えるものであり、受け入れられない、と言ってきている。まことに不思議なことであり、如何に驚くべき結果であるかを示していると言える。
多くの数学者は、内容を理解せず、100/0=0 は100=0 x 0 =0 で矛盾であると即断している。しかるに論文は 100/0 は 割り算の意味を自然に拡張するとゼロの結果を得るのであって、ゼロ除算の結果は 100=0 x 0 =0を意味しないと説明している。 逆に、無限大、無限遠点は数と言えるかと問うている。
ところが面白いことに 既に3月18日付文書で、道脇裕氏は 掛け算と割り算は別であり、ゼロ除算100/0は 自明であると述べていた。しかし、その文書は、一見すると
矛盾や間違いに満ちていたので、詳しく分析してこなかった。しかるに上記7月11日の会合で、詳しい状況を聞いて、道脇氏の文書を解読して、始めて道脇氏の偉大な考えに気づいた。結論は、ゼロ除算100/0は分数、割り算の固有の意味から、自明であると言うことである。これはチコノフ正則化法や一般逆とは関係なく、分数、割り算の意味から、自明であるというのであるから、驚嘆すべき結果である。千年を越えて、未明であった真実を明らかにした意味で、極めて面白い知見である。またそれは、割り算が掛け算の逆であり、ゼロ除算は不可能であるという長い囚われた考えから、解放した考えであると評価できる。
原理は日本語の表現にあるという、掛け算は 足し算で定義され、割り算は 引き算で定義されるという。割り算を考えるのに 掛け算の考えは不要であるという。
実際、2 x3 は 2+2+2=6と繰り返して加法を用いて計算され、定義もできる。
割り算は、問題になっているので、少し詳しく触れよう。
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるかと考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数は50であると考える。100を2つに分ければ50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。a がゼロでなければ、分数b/aは 現代数学の定義と同じに定義される。
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、
100 - 0 = 100,
であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、
100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。(ここに、絶妙に面白い状況がある、0をどんどん引いても変わらないから、無限回引けると解釈すると、無限とも解釈でき、ゼロ除算は 0と無限の不思議な関係を長く尾を引いている。)
同様に0割る0は ゼロであること0/0=0が簡単に分かる。
上記が千年以上も掛かったゼロ除算の解明であり、 ニュートンやアインシュタインを悩ましてきたゼロ除算の簡単な解決であると 世の人は、受けいれられるであろうか?
いずれにしても、ゼロ除算z/0=0は 既に数学的に確定している と考えられる。そこで、結果の 世への影響 に関心が移っている。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
再生核研究所声明295(2016.04.07) 無限の先にあるもの、永遠の先にあるもの ―盲点
セロ除算は新しい空間像をもたらしたので、いろいろな面から論じ、例えば、再生核研究所声明 271(2016.01.04): 永遠は、無限は確かに見えるが、不思議な現象 の中で、次のように述べた。
直線を どこまでも どこまでも行ったら、どうなるだろうか。立体射影の考えで、全直線は 球面上 北極、無限遠点を通る無限遠点を除く円にちょうど写るから、我々は、無限も、永遠も明確に見える、捉えることができると言える。 数学的な解説などは下記を参照:
再生核研究所声明264 (2015.12.23):永遠とは何か―永遠から
再生核研究所声明257(2015.11.05):無限大とは何か、無限遠点とは何か―新しい視点
再生核研究所声明232(2015.5.26):無限大とは何か、無限遠点とは何か―驚嘆すべきゼロ除算の結果
再生核研究所声明262(2015.12.09)::宇宙回帰説―ゼロ除算の拓いた世界観
とにかく、全直線が まるまる見える、立体射影の考えは、実に楽しく、面白いと言える。この考えは、美しい複素解析学を支える100年以上の伝統を持つ、私たちの空間に対する認識であった。これは永劫回帰の思想を裏付ける世界観を 楽しく表現していると考えて来た。
ところが、2014.2.2.に発見されたゼロ除算は、何とその無限遠点が、実は原点に一致しているという、事実を示している。それが、我々の数学であり、我々の世界を表現しているという。数学的にも、物理的にもいろいろ それらを保証する事実が明らかにされた。これは世界観を変える、世界史的な事件と考えられる:
地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
天動説→地動説
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
現在、まるで、宗教論争のような状態と言えるが、問題は、無限の彼方、無限遠点がどうして、突然、原点に戻っているかという、強力な不連続性の現象である。複数のEUの数学者に直接意見を伺ったところ、アリストテレスの世界観、世は連続であるに背馳して、そのような世界観、数学は受け入れられないと まるで、魔物でも見るかのように表情を歪めたものである。新しい数学は いろいろ証拠的な現象が沢山発見されたものの、まるで、マインドコントロールにでもかかったかのように 新しい数学を避けているように感じられる。数学的な内容は せいぜい高校生レベルの内容であるにも関わらず、考え方、予断、思い込み、発想の違いの為に、受けいれられない状況がある。
この声明では 盲点の視点から、強調したい存念を纏めたい。
直線をどこまでも どこまでも行ったら、どうなるだろうか? 関数 y = 1/xで 正方向からx がゼロに近づいたらどうなるであろうか? あるいは 同様に上記立体射影で 北極にどんどん近づいたら どうなるであろうか? どんどん進んだらどうなるであろうかという問題である。伝統的で自然な考えは 何に近づくかと発想して、近づいた先、具体的には、無限大や北極に(無限遠点)に行くと考えるのは当然ではないだろうか。この発想の基礎には連続性、あるいは極限値の考え方がある。近づいて行った先が、求める対象であると考えてきた。具体的な関数y = 1/x では 正方向からx がゼロに近づいたら,限りなく大きくなるので、無限大が 1/0 の自然な値であろうと考えてきた。ところがゼロ除算の数学は、突然ゼロであると言っている。驚嘆すべき現象、事件である。北極に近づいた先が北極(無限遠点)であるから,平面上のあらゆる方向の先は、北極(無限遠点)であろうと発想してきたが、実は突然、原点に飛んでいるということが明らかにされた。無限の先は、実はゼロであったという事実である。我々はどんどん近づく先を考えたが、真の先までは考えず、あくまでも近づく先を考えていたことになる。これは無限の先を見てきた時の,それこそ、盲点そのものであったと言えるのではないだろうか。無限の先は、連続性ではなく、実は強力な不連続性、飛びが生じていたという事実である。これは全く、思いがけない、現象である と言える。それは、盲点、あるいは落とし穴があったと表現できよう。
従って、無限の彼方に関する我々の世界観は 大きな変更を要求されることになるだろう。
以 上
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
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