2014年10月6日月曜日

国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革“

国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革“
LITERA/リテラ
文部科学省ホームページより
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 大学進学率が50%を超え、真理の探究にとりくむ象牙の塔という大学のイメージはすでに過去のものとなった。今や大学は、そのあたりの民間企業も真っ青な、徹底した経済の論理による支配が強まっている。
 しかし、まさかここまで、と関係者を震撼させたのが、最近、文部科学省が国立大学に示した方針だ。この問題を伝えた数少ない報道である『東京新聞』9月2日付朝刊の「国立大から文系消える?文科省が改革案を通達」と題された記事ではこう紹介されている。
 
「文部科学省は先月、同省の審議会『国立大学法人評価委員会』の論議を受け、国立大の組織改革案として『教員養成系、人文社会科学系の廃止や転換』を各大学に通達した」
 通達の文言を素直に読めば、たしかに記事タイトルどおり、文系を廃止して理系への転換を促しているとしか読めない。ところが同記事中で文科省担当者は「今回の通達は文系学部の廃止や理系への転換を提案しているのではない。先に示された役割に基づいて、改革してほしいだけだ」と語っている。あたかも国の強制ではなく、大学の自主性に委ねているかのようだ。しかし、担当者の言葉に登場する「先に示された役割」が曲者なのだ。
 たとえば、横浜国立大学教授の室井尚氏は自身のブログに「国立大学がいま大変なことになっている」という記事を投稿(5月15日)。すでに今回の通達が先どりして実質化されている様子を生々しく報告し、一部では話題になっていた。
「昨年度6月に閣議決定された『国立大学改革プラン』に従って、呆れるほどスピーディに平成25年秋にはほとんど決定された『ミッションの再定義』によって各国立大学や各学部が目指すべき『ミッション』が、文科省によって一方的に各国立大学に通達された。『各大学との意見交換によって』と書かれてあるが、実際にはそうではない。文科省からすでに文言がほとんど書き込まれ、自主的な数値目標だけが空欄になった『ミッション』が一方的に各大学に突きつけられたのである」
「この表の2,3,4には埼玉大学、千葉大学、横浜国立大学と関東一円の地方大学が並んでいるが、文科省がこれらの大学に求める『ミッション』は共通している。つまりは理工系か医療系に力を注げということだ。実際、文科省の担当者からは多数の私学がある神奈川県では、教育コストがかからない文学部系は私学に任せて、理工系に集中させないと税金を投入する意義を問われると財務省から言われているとの発言があったそうで、その結果ぼくたちが所属している『人間文化課程』は、実態は全く異なるのに単なる教員養成系の『新課程』と一緒くたにされて『廃止』と告げられてしまった(リンクの後ろの方に書いてあります。ほんの二行だけ。これも最初っからこう書き込まれていた)。文科省が国立大学の課程・学科を直接『廃止せよ』と言ったのである。」(上述の室井氏のブログより)
 文科省の露骨な指示によって、すでに国立大学での教員養成系、文系の廃止は着実にすすめられているのだ。
 福井県でも、県下でたった2つしかない人文社会科学系のひとつである福井大学地域科学課程の廃止が決定し地元に波紋を広げていると福井新聞が8月6日に伝えているところからも、事態が相当進展していることは間違いない。
「国立大学」は2004年に設置形態が変更され、国立大学法人という独立行政法人となった。文科省のHPなどには、大学の自主性を高め柔軟な教育研究をすすめるためと謳われているが、国からの運営費に頼らざるを得ない財政構造になっていることから、結局、国すなわち時の政府の方針に逆らうことができないのが実際だ。
 こうした、大学に市場原理が導入されカネをうまない学問を切り捨てていく流れが、いっそう加速しているのには、もちろんあの男の登場が背景にある。
 あの男、安倍首相は5月6日のOECD閣僚理事会基調演説でこう語っている。
「だからこそ、私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています。」
 安倍にとって「学術研究を深める」ことなどまったく無意味で、社会のニーズにあった職業に就けるための教育こそが必要だと考えられている。ほとんど大学教育そのもの否定である。大学の専門学校化といってもいい。象徴的にいえば、文学部の存在意義など見い出しようのない教育観、学問観である。
「人間とは何か」「社会はどうあるべきか」そしてそもそも「学問とは何か」を問い、先人の知的蓄積を継承し、未来を構想する知的活動を「教養」と呼ぶことにしてみよう。こうした教養を欠いたままで、科学技術の発展を追求することがどういう結果を招くのか。つい最近、この社会はそれを見てしまったのではなかったのか。
 吉田昌郎所長が東日本壊滅の状況を想起せざるを得なかった3.11福島原発事故の惨事こそ、短期的な経済の論理だけに追随し、人類史や文明史のなかに科学技術を位置づけることができなかった、大学の貧困、学問の貧困が将来した結末なのだ。
 また、経済の論理に支配される日本の科学界の惨憺たる研究環境を露呈したのがSTAP論文騒動だ。小保方晴子氏は、学問や研究の何たるかについての見識を深める契機も与えられずに5年任期の研究員ポジションにつき、任期内に結果が出せなければ地位を失うギリギリの状態に置かれていた。一方、笹井芳樹氏の死亡をめぐる報道のなかで、企業の出資により総工費40億円近い「笹井城」とも呼ばれる研究施設の建設が進んでいることが伝えられた。産官で莫大な投資を行い、短期的に回収できる成果をあげる仕組みをつくり、研究者を追い回しているのが、科学界の実状なのだ。
 哲学者カントは『学部の争い』(1798年)で大学論を展開した。大学部の学部には、神学部、法学部、医学部上級学部とその基礎をなす哲学部に分類される。上級学部は社会的有用性を持ち国家と結びついているが、国家から自由な哲学部こそが学問の真理性を判断することができると述べている。
 時の政権の意志と経済的利害だけで大学が統制され、とりわけ人文社会科学という人間や社会のあり方を考察する学問がないがしろにすることは、知的営為そのものの否定である。
 
「大学改革」の名の下に進行する文化破壊と知的荒廃の様をもっと多くのひとびとが知る必要があるだろう。

文部省を一概には批判できず、国家として、教育、研究の在りようの全体的な在りようが問題にされており、断片的な批判では説得力が弱いのでは?
先進国など 状況などを考えて、全体的な評価、批判を具体的に行なうべきでは。
言っていることは、もちろん、一面の大事な視点、しかし、そのような単細胞的な思考なら幾らでもできますね。
再生核研究所声明 69(2011/09/27)  単細胞人間 ― 単細胞的思考
(背景: 2011/09/22 宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)
単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。
まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。
相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。 
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。
次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。
上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。
1) 絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2) その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3) みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4) 特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5) 世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6) 一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7) くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8) ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。
これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。
なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35:  社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
                                    以 上

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